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22 呉さんとの思い出

私たち家族を韓国に招待 戒厳令下のソウルを案内

藤屋の玄関先で呉さんの家族と。後列左から2人目が呉さん、左端は弟さん。(前列左から)いち子母、呉夫人、私

 藤屋をよく利用されたお客さまで韓国ソウルの会社社長の呉(オオ)根赫さんとは、忘れられない数々の思い出があります。呉さんは私より年上で、戦時中はお兄さんと生き別れになるなどつらい思いをされたようです。浦和高校を出て韓国の大学を卒業されました。

 1970年代半ばから年に数回、仕事で長野にいらっしゃり、藤屋に宿泊されていました。何度かいらっしゃるうちに藤井家との交流も深まり、小学生だったわが家の子どもたちの運動会を見学に行ったり、何年か後には奥さまや息子さんも連れて見えたり、また私たち家族を韓国へ招待してくださったりと家族ぐるみで仲良くお付き合いさせていただきました。

 79年6月にまず私と友人の3人で、次はいち子母と母のお姉さんと、最後に私の弟の弘と、というように韓国へ呼んでくださいました。私が行った頃、韓国は戒厳令が敷かれていて、深夜12時以降の外出は禁止。高速道路は飛行機の滑走路になるという話も聞きました。呉さんは1週間休みをとって、私たちを社長車に乗せてソウル市内を案内してくれました。この時、小さな小屋のような場所でごちそうになった、こんろで焼いた焼き肉は今でも忘れられない味です。

 それからだいぶたってからのこと。呉さんは、弟さんが米国ロサンゼルスで仕事をしていた関係で、毎年日本からロスへ寄り、そこからヨーロッパへ視察旅行をされていました。ある時、ロスへ誘ってくださり、私は「良い機会」と、思い切ってご一緒することにしました。5日間ほどの滞在でした。

 当時弟さんは貿易の仕事をされていて、弟さんの会社で働くスタッフの人たちとロス市内を案内してくれました。呉さんと2人でディズニーランドとハリウッドを見学に行った日もありました。休日は呉さん、弟さん、社員の人たちとラスベガスのカジノホテルMGMへ。ショーには、本物のライオンが出てきてびっくり。弟さんはここでは顔が利き、「何でも一番高いものを注文して」と言ってくださいました。どれもボリュームの多さに驚いたことを覚えています。夜はカジノへ行き、日本では見られない米国の華々しい空気にふれました。ドレス姿の女性の中、私はTシャツにジーンズという軽装で所持金の1万円が終わるまでカードを楽しみました。今思えば我ながら大胆な行動ができたものと感心します。

 帰りはヨーロッパに行く呉さんと別れ、1人でハワイへと向かいました。ハワイには、戦前、祖母甫が、藤屋で働いていた女性をお嫁入りさせていました。相手はドイツ人でした。その夫婦のお子さんから、両親の戒名を書いた位牌を藤屋に置いてほしいと言われ、今も仏壇に預かっているという経緯がありました。終戦後は、いち子母が交流を続け、その後私がご夫婦のお孫さんにあたる娘さん家族と交流しています。

 ご主人が航空会社に勤務されていたこともあり、夫婦で何回か長野にいらしたことも。それでホノルルへ寄って帰る計画を立てたのです。2人のお宅に何泊かして、ハワイを案内していただきました。海岸端やダイヤモンドヘッドを見渡せる小高い展望スポットなどにも連れて行ってくれました。

 最終日はご主人が空港まで見送りに来てくださいました。「これはママ、これは妻、これは子どもたち、これは愛犬から」と4、5本ものレイを私の首にかけてくれました。生花を使ったレイはとても良い香りがしました。それは帰宅後、藤屋のフロントで1カ月余りも香り続けていました。

 聞き書き・中村英美


2023年4月15日号掲載

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