美容界は「地方の時代」へ 長野の街に「伸びしろある」
お金に苦労してきた私ですので、東京で美容師として働き始めてからも自分の店を出すことなど「夢のまた夢だ」と思っていました。独立を決めた当初も、刺激のある東京を離れて長野に帰ることなど頭にありませんでしたが、動き始めると自然な流れで長野出店の話へと進んでいったように思われます。
出店資金に関してまず東京の銀行に勤めていた叔父に相談しました。高校卒業後上京した際に、渋谷まで迎えに来てくれた叔父です。
私が店長になって給料が増えた時、叔父は「若い者が大金を持つのはよくない。毎月、給料の半分以上は天引きで貯金しなさい」とアドバイスしてくれました。仕事と美容施術向上のための練習で忙しく、お金を使う暇もなかったので、いつのまにか貯金は予想以上にたまっていました。貯金の額を見た叔父は「銀行の融資を少し足せば、いつでも店を出せるぞ」と言ってくれました。
次は場所選びです。思い入れの深い原宿でと思いましたが、目が飛び出るほどの家賃の高さに断念。資金に見合う場所として不動産業者から紹介されたのは世田谷区の二子玉川でした。今でこそ「ニコタマ」と呼ばれ、タワーマンションが立ち並ぶ街に発展していますが、当時、目に付くのは原っぱの中にポツンと立つ「玉川高島屋」ぐらい。「こんな所に流行に敏感な原宿のお客さまは来てくれない」と思って断りました。
都心に出店したいという理想と高い家賃の現実との間で計画が滞っていた時に、ヒントを授けてくれたのは付き合いのあった美容雑誌の編集長でした。「これからの美容界は地方の時代だよ。地方のレベルを上げれば、日本の業界が発展することになるよ」。その言葉に私の心が動きました。
自分にしかできないことをやるために店を出すのに、都会で二番煎じのような店を出しても面白くないじゃないか—。初めて故郷・長野に目が向きました。
タイミングは重なります。出店計画を知った地元・牟礼の幼なじみが「長野駅前にビルを建てる知り合いがテナントを募集している」と声をかけてくれたのです。
そのビルは南千歳公園の斜め向かいにありました。私は場所の下見とリサーチを兼ねて長野駅前に立ち、道行く人を眺めました。
「これは伸びしろがある」と感じました。世界の流行を追求していた私の目には、当時の長野の人々のスタイルは遅れていると映ったのです。「長野の女性はもっときれいになれるはずだ。長野の街を変えたい」
そのためには私一人の力では足りない、力のある美容師が大勢必要だ。美容師を育てるためにどんなシステムが必要だろうか、どんな店が適しているだろうか—。考えを巡らせながら、熱い気持ちが再びふつふつと湧いてくるのを感じました。
自分の店を出したいという漠然とした思いは、「長野の美容界を変える」「力のある美容師を育てる」という新たな目標にかたちを変え、私の中でしっかりと根を張り始めました。「ここでやるぞ」。1980年、南千歳のビルに出店することを決めました。
聞き書き・村沢由佳
2022年2月12日号掲載
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