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20 娘の大学4年間

仕送り工面で四苦八苦 描いては売り自転車操業

2003年の年末、私のアトリエで、絵を描く私のまねをする大学生の娘

 中学校で不登校を克服した娘は、高校では勉強に四苦八苦しながらも男子バスケットボール部のマネジャーをやり、部活の仲間との3年間をエンジョイしていました。そして子どもを持つ作家仲間からのアドバイスなども参考にし、受験したいくつかの大学から悩んだ末、明治大学文学部の二部(夜間)に進学しました(文学部二部は2004年4月から学生募集停止)。

 私は大学の授業料とアパートの家賃を負担し、娘は奨学金と、日本経済新聞社でのアルバイトで生計を立てていました。私はそれまで、画家としてキャリアアップを目指し、より良い絵を描くための努力を重ねる一方で、金銭については丼勘定でも両親と共に暮らしていたこともあり、生活に支障を来すことはありませんでした。しかし、娘の授業料や家賃を払っているうちに、亡くなった夫が残してくれた貯金があっという間に底をついてしまいました。

 何の保証も当てもない画家を仕事としてやってきたくらいですから、私の金銭感覚は大ざっぱです。作家活動では画材の購入費用などさまざまな経費が掛かります。お客さまに満足していただける展覧会にするためには、経費を出し惜しみしてはいけないと考え、出したお金は後になって返ってくるだろうという根拠のない感覚を持ち続けてきました。娘が大学を卒業するまで、夫が残した貯金でどうにかなるだろうというのも、厳密に計算した訳ではなく、いい加減な感覚だったので、貯金が尽きてしまったのです。

 娘の大学生活の後半2年間は展覧会を開いては絵を売り、そのお金を家賃代に充てるという、描いては売り描いては売りの自転車操業でした。周囲の人たちから「小山さん、やたら展覧会を開いているけれど大丈夫?」と心配されるほどでした。娘も昼間はアルバイトを、夜は真面目に大学で勉強を頑張り、不満も言わずに、ゼミでは良き友人もできて充実した大学生活を過ごしていたようですが、私の人生の中では相当大変な、修行の4年間でした。両親がまだ元気だったので私は仕事に専念することができましたが、常に目先のお金のやりくりが頭から離れず、自己啓発や占いの本を買っては、そこに書かれている言葉で自分を鼓舞するような日々でした。

 石川利江さんをはじめ、いろいろな人が展覧会を企画してくださいました。私は展覧会のたびに案内状のはがきを書き、全ての人に一言二言のコメントを添えていました。今でしたらSNSなどでつながる方法はあるでしょうが、当時は案内状のはがきだけがお客さまと唯一つながる手段でしたので、一人でも多く足を運んでいただこうと、心を込めて書いていました。

 たくさんの人たちのおかげで、慌ただしい4年間を乗り切ることができ、たくさん描くことで、結果的に画力がついたと思います。俗に「売り絵」という蔑称がありますが、現実は真に自分が納得して最も良いと思える絵から売れていきます。お金のことですごく悩み苦しみましたが、良い絵を描けば買ってくださるというお客さまへの信頼に支えられ、自分なりの表現を切り開いていこうという信念がぶれなかったので、どうにか乗り切ることができました。

 娘が大学を卒業した時は、アルバイトと学業を頑張った娘が誇らしく、同時に、やっと子育てが一段落し、肩の荷が下りたという思いでした。娘が長野で就職することになり、東京での個展の時の拠点にもしていたその住まいを引き払う時には、親子でしばらく過ごした小さな出城をなくすような寂しい思いもありました。

 聞き書き・松井明子


2023年10月21日号掲載

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