世界大会に出場果たすも 競技直前 理不尽な「力」が…
1979年、私はパリで開催される世界大会への出場を決めました。前年のCACF(現・FNCF フランス理美容連盟技術芸術院)主催のアジア大会で入賞し、世界大会に出場する日本代表3人の1人に選ばれたのです。美容師を志した時から抱いていた「はさみ一丁で世界へ」という夢を実現させるチャンスが訪れました。
代表に決まった際、世界大会で組むフランス人モデルを選ぶよう言われ、提示された写真の中から自分のイメージに合う人を選びました。このモデル選びがのちに波乱を呼ぶことになるとは露ほども思わず…。
パリの世界大会はその規模と熱気、緊張感のいずれも国内大会の比ではありませんでした。「世界中から選ばれた美容師が頂点を目指す場所に自分がいる」。私の気持ちは高ぶりました。
競技前の数日は、国ごとに用意された特別室で練習しました。前年度チャンピオンに直接指導してもらえるという夢のような時間の一方、緊張と重圧のためか到着3日目に日本代表の1人が嘔吐(おうと)して倒れ込むということもありました。
現地で初めて対面したモデルからも強烈な影響を受けました。私が選んだモデルは偶然にも前年度チャンピオンのモデルを務めた人でした。経験豊富で非常にプロ意識が高く、練習中も黙ってなどいません。通訳を介して「そんなデザインはだめ」「今のパリの流行はこうだ」と手厳しいアドバイスを飛ばしてくるのです。私が疲れて「休憩にしませんか」と聞くと、「私がモデルをやるのだから、あなたは優勝しないといけない。そんな考えでは勝てない」と一喝されました。
「これがプロか。これが世界か」。舞い上がっていた気持ちが引き締まりました。ちぎったパンをモデルに口に運んでもらい、水代わりの牛乳を飲み、12時間ぶっ通しで練習しました。
本番に向けて、モデルと心を一つに取り組んできました。それなのに、競技直前、別のモデルに代えられてしまったのです。
私より年上の日本代表が、自分のモデルと代えてほしいと日本の大会関係者に頼んだことが原因のようでした。その関係者は美容業界で力を持つといわれていた人でしたが、私は強く抗議しました。すると「君はもう大会に出場しなくていい。帰国しなさい」と言われてしまいました。
目の前が真っ暗になりました。「すみませんでした。大会に出ることだけは認めてください」。気が付くと、私は床に土下座してそう懇願していました。
大人の事情、業界の裏側。そんな言葉が頭をよぎりました。当時の美容業界には、まだ「目に見えない力学」が残っていたのです。
努力して腕を磨けば結果は必ずついてくる。そう信じてきた私でしたが、技術とはまったく関係のない、理不尽な力の前に屈するしかありませんでした。
別のモデルと競技に出たこの大会で、私は入賞さえできませんでした。美容界に飛び込んで約8年。がむしゃらに突き進んできた私の中で、何かが「ポキン」と音を立てて折れました。
聞き書き・村沢由佳
2022年12月29日号掲載
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