街に人を呼ぶ仕掛け学ぶ 技術第一世界大会目指す
原宿の美容室店長となり、無我夢中で働いていた20代半ば、お客さまを介してファッションビル「ラフォーレ原宿」の初代館長を紹介されました。その人は、若者に人気が出始めていた原宿の「ブティック竹の子」の服を流行させて、「大勢の若者を原宿に呼び込みたい」という構想を温めていたのです。
私を含めた美容師やスタイリストが協力し、原色の派手な「竹の子ファッション」のモデル数人に1日4、5回、竹下通りを歩いてもらうという企画を始めました。歩行者天国(ホコ天)で若者たちがラジカセのディスコ音楽に合わせて踊る「竹の子族」が1980年代前半、大流行したことはご存じの通りです。私が関わったのは短期間でしたが、流行を生み出して街に人を呼ぶ仕掛けを学べた貴重な機会であり、のちに長野で始めた「ナガノコレクション」につながる経験でした。
街の変貌と派手な広告が相乗効果となり、私が店長を務めた美容室「エスコア」のお客さまは急激に増えていきました。
多い日は百人以上が来店。予約制ではなく受け付け順だったので店内に入り切れないお客さまが道まであふれ、急きょ近くの二つの喫茶店を待合室として貸し切ってコーヒー1杯を無料でサービスしました。
20人の美容師で接客しましたが、一日中立ちっぱなしの話しっぱなし。私も食事どころかトイレを我慢することが続いてぼうこう炎になってしまいました。
しかし、店長になって本当に大変だったのはスタッフ(美容師)との関係です。私が突然店長になったことに対するハレーションは小さくありませんでした。
閉店後に一人ずつ食事に誘って協力を頼む一方、店への要望を聞き取って社長に伝えるなど、橋渡し的な役割としても汗をかいたつもりです。それでも何人かの先輩は店を去り、残ったスタッフから「あなたのやり方は納得できない」と言われることもありました。
美容は自分の腕だけが頼りの世界。私もそうですが「一匹おおかみ」のような、職人気質が多いように思います。肩書ではなく、技術で店長として認めてもらうしかないと思いました。
すでに大会で何度か入賞していましたが、若い美容師の登竜門として名高い新美容出版社主催の大会優勝を目標にしました。毎月開かれていたこの大会に数回目の挑戦で優勝。喜びに浸る間もなく、次は世界大会出場を目指しました。
この頃の私は美容雑誌で紹介されたり特集ページを任されたりすることも多くなり、わざわざ北海道や関西など遠方から来て私を指名してくれるお客さまも増えてきました。
閉店後は午前0時まで若手の勉強会を開き、その後は店長の仕事や大会に向けた練習と、睡眠は毎日数時間でした。当時の私は常にアドレナリンが出ていた状態だったのでしょう。忙しい日々も「これが成功するということなのか」と考えていました。原宿という若者のエネルギーが渦巻く場所で働く日々は、それほど刺激に満ちていたのです。
そして1979年、私はついに世界大会に出場することになりました。
聞き書き・村沢由佳
2022年1月22日号掲載
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