美容師4年目での抜てき 馬車馬のように働く日々
1970年代半ば、私が働き始めた頃の原宿はおしゃれに敏感な人が集まる街というイメージの一方、八百屋や花屋など昔ながらの個人商店もあり、どこかのんびりとした風情が残っていました。それが数年後、「竹の子族」の流行を機に人の流れが絶えない若者の街へと激変していくのです。
「一真」を名乗り働き始めた私にとって、原宿は美容師として大きく成長させてくれた忘れがたい場所となります。美容師になって4年目、思いがけず美容師20人を束ねる店長を務めることになったのです。
原宿支店は開店からしばらくすると錦織光弘先生の手を離れて先生の共同経営者だった人が社長となり、店名も「エステティックコアフュール(エスコア)」に変わりました。私は社長に引き留められ、そのまま原宿の店に残りました。店名や経営者が変わっても、美容師の仕事とコンクール(大会)出場に向けて練習に打ち込む私の生活は変わりませんでした。
変化は突然訪れました。ある日、店長が退職。社長に呼び出され、「一真、店長に手を挙げなさい」と言われました。私は「ハッパをかけるため全員に声をかけているのだろう」と軽く考えていました。しかし、店内会議で「店長をやりたい人」という社長の問いに手を挙げたのは、なんと私だけ。周りはほとんどが先輩です。いくら上を目指してきたといっても「店長なんて早過ぎる」と自分でも思いました。しかし、ほかに手を挙げる人が出ず引っ込みがつかない状況に。先輩たちの冷たい視線を感じましたが腹をくくりました。
社長からは「給料はあなたの望み通りにします。ただし24時間勤務のつもりで」と言われました。月給数万円だった私としては、かなり思い切った金額を提示しましたが了承されました。「お客さまを倍増させます」と社長に誓いました。
店長として新たに課された仕事は山積みで、馬車馬のように働く日々が始まりました。社長からは「与えられた器具機材、スタッフをフル回転させて売り上げを上げるように」という指令が出ていました。
本来の美容師の仕事とはまったく関係のない売り上げ計画の作成や、新人育成の方法、効率的な施術のシステムづくり—。売上金の管理や売上グラフ作成などお金に関する仕事には特に苦労し、気付けば朝になっていたということも度々でした。
「24時間勤務」の言葉は本当で、夜中や早朝でも社長の呼び出しがあれば駆け付けて打ち合わせが始まりました。
お客さまを増やそうと割引券付きのチラシを作り、店の半径5キロの住宅街を回ることもしました。一軒ごとにインターホンを押して対面で来店を呼び掛けるのです。まるで「美容室の訪問販売」でした。さらに社長の方針で、テレビや雑誌にもばんばん広告を打ちました。原宿が若者の街へと変わる時代の波にもうまく乗り、来店客がうなぎ上りに増えるまでそう時間はかかりませんでした。
聞き書き・村沢由佳
2022年1月15日号掲載
Comentarios