16 種田山頭火
- 6月27日
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依頼受け展覧会用に冊子 生命力の象徴女性を描く

托鉢しながら全国を放浪した自由律俳句の俳人種田山頭火(1882〜1940年)は、もともと特に好きでもありませんでした。
屋代東高校(現屋代高校)の同級生で、長野市にあった丸光デパートで美術担当をしていた友達を通じて、伊那で開催計画のある「井月と山頭火展」のために板画を彫ってほしいという依頼が飛び込んできたことがありました。1991年ですから、35年前のことです。
当時僕は山頭火について佐久に来たことがある俳人といった程度の認識しかなく、「これはちょっと勉強しなければいけないな」と思ったわけです。
山頭火が1936(昭和11)年、善光寺を訪れた際に自宅に泊めたという長野市の自由律俳句の俳人風間北光(本名・正雄)さんが存命で、風間さんから話を聞くなどして20句ほどを板画に彫りました。
それから4年後の95年、愛知県刈谷市の稲垣恒夫さんという人が僕の家を訪ねて来ました。
稲垣さんは「三河知多山頭火の会」の代表で、山頭火の句碑を建てたいと善光寺に申し込むために信州を訪れていました。ところが、善光寺の境内に新たな碑を建てることはできないと言われたそうです。
仕方なく刈谷に戻る途中、麻績村辺りで道に迷って飛び込んだある寺で焼き物を焼いていた人に経過を話したら「山頭火なら貘郎さんだ」と言われて引き返してきたというのです。
稲垣さんに句碑の俳句を彫ってほしいと頼まれたのですが、僕は「(山頭火は)20句ぐらい彫ったからもうやらない」と言ったらしいのです。そうしたら稲垣さんは「20句程度では山頭火のことは分からないでしょう。分かるようになるまで彫ってください」と言われ、彫るようになりました。稲垣さんは刈谷や東京で僕の作品展を何回も開いてくれて、作品も売れました。
善光寺の句碑についても、僕は善光寺の誰と交渉をしたのか記憶にないのですが、無事句碑が建つことになりました。96年のことです。
稲垣さんは、善光寺に句碑を建てる際、僕の家にも寄って僕の家のために山頭火の句碑も建ててくれました。僕が「ここには山頭火は来ていない」というと、稲垣さんは「いいんだ、いいんだ」と笑っていました。稲垣さんに会わなければ、100点以上も山頭火の板画を彫ることがなかったと思います。
稲垣さんは、善光寺のほかにも信濃町の一茶記念館や小諸市の温泉旅館中棚荘など、全国各地に山頭火の句碑を建てています。
山頭火は、山口県防府市で大地主・種田家の長男として生まれました。でも、禅宗の坊さんの格好をして全国各地の旅を続け、命をつないでいくという意識を俳句から感じます。当時女性は選挙権もなく、男尊女卑に耐え忍び、子どもを育てていた。山頭火は女性に生命力を感じていたのでしょう。
だからなのでしょうか、山頭火の俳句に絵を付けると女性の絵が自然と多くなりました。伊那で開かれた「井月と山頭火展」に向けて作った冊子「山頭火の信濃道」の表紙は、大胆にも裸の女性の板画です。これは「山ふかくして白い花」という山頭火の句に付けた板画作品の一部です。生命力の象徴です。
この時は、9月に始まる展示に向け聞き取りをしたり原稿を書いたり、関係者に原稿を書いてもらったり、板画そっちのけで冊子作りに取り組んでいました。ページ数も多く、今までにない立派な冊子でした。そして、この表紙を作ったら「こんな表紙はないだろう。絶対これは売れる」と確信し、500部も印刷したものです。
(聞き書き・吉村英樹)
2026年6月27日号掲載



