15 松尾あつゆき
- 6月20日
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「原爆句抄」はすごい句 板画の句集出したい

信濃毎日新聞で2年ほど前に終わった連載「いまぞ熾(さか)りつ」は、長崎で被爆した自由律俳句の俳人松尾あつゆきの足跡を追い、信州での活動も詳しく描いています。
あつゆきは1945(昭和20)年8月9日、長崎に投下された原爆により、妻と3人の子を亡くしました。「なにもかもなくした手に四まいの爆死証明」は家族の死を詠んだ代表的な句です。当時15歳の長女も被爆しましたがその後回復。49年10月、あつゆきは僕の母校である屋代東高校(現屋代高校)の英語教員となって赴任します。
信州に来たのは、丸子町(現上田市)出身の芹沢とみ子さんと再婚したからです。とみ子さんも戦争で夫を失い再婚でした。ちょっと脱線しますが、とみ子さんは芹沢家3姉妹の末っ子で、長女の寿子さんは自由律俳人の荻原井泉水と、次女ツガルさんは陶芸家で自由律俳人の内島北朗と結婚しています。
51年春には松代高校の教頭として転出します。屋代東高には1年半しかいませんでしたが、生徒にはとても人気があったようです。当時広く知られていた「長崎抜天」という漫画家がいましたが、あつゆきは親しみを込めて「長崎ばってんさん」と呼ばれていました。教え子の竹村あつおさんたちは松代のお寺の土蔵を住まいとしていたあつゆきを訪ね、話を楽しんだそうです。竹村さんは松尾あつゆき全句集「花びらのような命」(2008年刊)を苦心して編集します。
僕が屋代東高校に入学したのは1958年、あつゆきが松代高に移って7年後のことです。すでにあつゆきの名残などなく、話をしてくれる先生もいませんでした。ただ、松代高校に進学した僕の友人にはあつゆきの授業を受けた者もいて、あつゆきについて語ってくれたこともありました。
僕があつゆきの俳句に出合ったのは、東京から帰郷した30代の頃。「原爆句抄」という句集を読みました。すごい句ですよ。体験そのもののすごさ、それを俳句の形にして残した。はじめは、この俳句を彫ろうなどとは考えてもみませんでした。僕がちゃらちゃら絵を付けるなんてできません。もしやるとしたら文字だけを彫るぐらいはできるかなと思います。
小学生の時か中学生の時かはっきり覚えていませんが、「原爆の子」という本を読んだことがあります。それを基にした映画も見ました。被爆した広島の子どもたちの作文を集めた本です。読んでみて、僕と同年代の子どもの作文がないことに気づきました。被爆当時は3歳です。凄惨(せいさん)な状況を体験したはずですが、どう書いたらいいのか、書きようがなかったのかなと僕は思いました。
あつゆきは61年、定年を迎えて長崎に戻ります。塾の講師などをして作句も続けました。貧しいながらもとみ子さんが献身的に支えました。あつゆきにすれば亡くなった前妻や子どもに対する思いも捨てられない。再婚同士の夫婦の複雑な思いが、このころの俳句から読み取れます。「めでたし相性大凶のめおととして詣る」といった句。僕はこれがいいなあと思って、その句を含めて句集を出したいと思って、竹村さんに相談しています。
多くて20句ぐらいでしょうか。タイトルは「ケロイド」です。生き延びた長女のケロイド手術のことを、あつゆきは書き残しています。文字だけの板画になるか、絵を添えるか、考えています。文字だけで彫ると、俳句そのものの迫力がパッと出て好きなんですけど、ちょっと絵があった方が読む人も読みやすいでしょう。句集は秋ごろまでに彫れればいいなと思っています。
(聞き書き・吉村英樹)
2026年6月20日号掲載



