先生の助手としてパリへ モデルの金髪を初ブロー

1974(昭和49)年、美容師1年目の秋に訪れたチャンス。それはパリで開かれる美容業界の国際見本市でデモンストレーションを行うことになった錦織光弘先生が、同行するアシスタントに私を選んでくれたことでした。
約30人の先輩美容師がいる中で、新米の私が選ばれるのは異例だったと思います。錦織先生の店でインターンとして働くことが決まった時、先生に「海外に行くときは僕を連れて行ってください」とお願いしていました。先輩からは「お前が行けるはずがない」と言われていましたが、先生は約束を覚えていてくれたのです。
初めて訪れる外国が流行発信地のパリだなんて—。旅行前は舞い上がっていた私ですが、パリでは頭が真っ白になるハプニングが待っていました。
パリ到着後は、先生がステージでカットする2人のフランス人モデルのフィッティングやデザインの仕込みなど準備に追われました。
そして迎えたステージ本番。数百の観客席は外国人ばかりでした。先生は「日本ではこういうテクニックを使ってデザインしています」と通訳を介して話しながら、1人目の髪をカットしていきました。ここまでは私も無難にヘルプをこなせていました。しかし、1人目のカットが終わると、先生は私を見て唐突に「やれ」と言ったのです。
「カットが終わったモデルをブローして仕上げろ」という意味だと理解するのに少し時間がかかりました。そんな話は一切聞いてなかったからです。
驚きましたがやるしかありません。ドライヤーとブラシを手に取り掛かりました。本番前に、カットしやすいようにモデルの髪を軽く濡らすことなどはしていましたが、外国人の髪に触れたのはその時が初めて。ブローをしたことなどありませんでした。
フランス人の金髪は、日本人の黒髪とはまったく違う質感でした。細いけれど本数は多く、濡れた髪はぺたんとしてまるでナイロンのようなのに、乾くとほわーっとボリュームが出ます。
ブラシに髪の毛がまったく絡んでこないので、何度巻いてもスタイルが決まりません。手も体も汗でびっしょりになりながらブローを続けました。
そんな私を見かねて、2人目のカットを終えた先生が代わりに仕上げてくれました。その後、どうやって会場を後にして飛行機に乗って帰国したのか、ほとんど記憶がありません。なぜ先生が突然私にブローを任せたのか聞くことができないまま、今も理由は分かりません。
帰国後しばらくは、「外国で大恥をかいてしまった」と落ち込みました。しかし、次第に「次こそは金髪を美しく仕上げたい」「自分も世界の舞台に立ちたい」という思いが大きくなってきました。
もっと腕を磨きたい。そのためにはどうすればいい? 今の自分にできることは何だ?
考えに考えてたどり着いた答えは「他流試合に出ること」。つまり、美容のコンクール(大会)に出場することでした。
聞き書き・村沢由佳
2021年12月11日号掲載