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14 「杏の里のわらべ唄」

  • 6月13日
  • 読了時間: 3分

12の唄を板画付き絵本に 周辺の村々登場する唄も

2009年に再版された「杏の里のわらべ唄」(左)と、15年に出版された「創作民話杏姫ものがたり」の表紙
2009年に再版された「杏の里のわらべ唄」(左)と、15年に出版された「創作民話杏姫ものがたり」の表紙

 1981(昭和56)年ごろ、中村やすのさんというわらべ唄をよく知っている近所のおばあさんの家に妻がテープレコーダーを持って行ってわらべ唄を録音しました。大学で方言や民俗学の調査をしたことのある妻はまだわらべ唄を歌える人がいるうちに記録しておこうとしたのでしょう。


 それをまとめて、91年「杏の里のわらべ唄」という絵本を300冊だったか500冊だったか作り、僕が板画を彫りました。2009年に再版を出しました。12のわらべ唄を春から順に並べました。僕は地元に伝わるわらべ唄を知っている方だと思いますが、中には聞いたことのない唄もありました。


 「もぐらホイ」という唄は「この木なる木かならね木か ならねとこんな木切っちゃうぞ」という詞です。家の周りのアンズや柿、梅、栗の木などを囲んで、1人がまさかりで木の幹をちょっと切り付け、「なる木かならね木か」と問いかけると、もう1人が「なりますなります」と答え、椀(わん)に入れたおかゆを切り口に擦り付けます。これは、成り木責めといわれる果樹について行われる豊作祈願の習俗を歌ったものです。


 最も森らしいのは、「森で杏(もも)とって」でしょう。


〽森で杏とって


 倉科で食って

 屋代で病んで

 篠ノ井で死んで

 雨の宮で穴ほって

 生萱(いきがや)でいけて

 土口でどんがらりん

 

 「どんがらりん」とは穴の中に物を放り込む時などの擬音です。この唄の面白いところは森の「も」と、唐桃(からもも)ともいう杏の「も」のように、頭韻を踏んだ歌詞です。あんずの里付近の村々が次々に登場して楽しい唄になり、昔の子どもたちが大声で歌っている姿が想像されます。長野市篠ノ井辺りまで歌われていたかどうかは分かりませんが。生萱や土口の人は知っていました。


 僕も子どもの頃、アンズの実もまだ青いうちから取って食べました。生で食べるのは体に良くないと当時もいわれていましたが、塩を付ければ「毒消し」になるといわれ、ポケットの中に新聞紙に包んだ塩を持っていました。「今のはやりのアンズ泥棒」と大きな声で叫んで取れば村の子はとがめられないといわれてもいました。


 一般的には江戸中期、伊予宇和島藩(愛媛県宇和島市)のお姫様(豊姫)が松代藩の真田家に嫁入りした際に持ってきたアンズの苗(種)を植えたのが始まりと伝えられています。その縁で、更埴市と宇和島市は1973年に姉妹都市となり、千曲市となった今でも両市の小学生が相互訪問しています。


 雨宮で美容師をやっている野﨑敏子さん(80)が、2015年、豊姫のことを調べて「創作民話 杏姫ものがたり」という絵本を自費出版し、僕は絵本の挿絵を野﨑さんに依頼され、板画を彫りました。


 江戸時代、森とその周辺でアンズの栽培が広まった由来については別説があります。豊姫は宇和島藩主伊達家の娘として江戸で生まれ、育ったというのです。


 この絵本が出版されて1~2年後、宇和島市から「伊達家の子孫」を名乗る女性が板画館にやって来ました。その女性によると、宇和島でも同じような話が伝えられているが、豊姫は江戸から一歩も外に出ていない、もちろん、宇和島にも行っていないと。


 「豊姫とアンズ」の話は創作だったのでしょうか。疑問は残りますが、いずれにしても、アンズの種が漢方の薬になるということで江戸時代に屋代宿で売られるようになり、アンズの栽培が盛んになり、現代の「あんずの里」となりました。

(聞き書き・吉村英樹)



2026年6月13日号掲載

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