地域を育む人こそ遺産
信級小学校歌 浅井 洌作
その二
進み行く世におくれじと
いとも広(ひろ)らにきずきたる
学びの庭の教草
栄えゆくこそ嬉(うれ)しけれ
日進月歩の世に遅れまいとする積極性、学ぶ営みへの熱い理想が、いまだ人を鼓舞する。「信濃の国」の作詞者、浅井洌の歌心が格調高い。1912(明治45)年の作成。村内2校が統合され、本校舎が完成した記念の年である。
以来110年、当時の更級郡信級村は今、長野市信州新町信級。車道から細い坂道を高台に上るや、パッと目の前が開ける。手前のグラウンド、その向こうに鳥が翼を広げたかのような広らな校舎。未来を背負う子どもたちに、最高の学びの場を—。村人の尊い志が、しみじみと伝わってくる。
信州の山間地は急傾斜地ばかりだ。何事かなさんとすれば、人の力、教育の働きに期待がかかる。それを養蚕業がしっかり支えた。
組合製糸北水社のあった信州新町平水内と犀川の対岸、信更町三水。ここ旧更級郡一帯も養蚕が盛んだった。桑の栽培から繭の収穫まで多忙な蚕飼いの体験を、富田貞則・栄子夫妻に伺った時だ。
2人とも昭和20年代の生まれ。西山の養蚕最盛期に、若い働き手として1.3ヘクタールの広い畑から採れる桑で蚕を育てた。スズメバチやアオダイショウに驚かされたエピソードなども交え、苦労話を終始楽しげに話してくれる。
養蚕を担った人たちの語り口は一様に明るい。そしてまた、自らの体験をあしたに向かって役立てたい—。そんな未来志向の発想が根強い。
〈私は生まれてから蚕と共に育った。動く生き物であり、飼育の楽しさが張り合いを持たせる〉。22(大正11)年に養蚕農家に生まれ、96(平成8)年まで信州新町安用で家業に携わった清水真市さんの述懐だ。
町公民館の記録集「養蚕の思い出」には、清水さんはじめ貴重な証言が数多い。故郷の大地で汗水流した生の声を後世に伝えたいという武田武元館長の思い入れを込めた労作だ。
同様の山間傾斜地、松代町赤柴では、北信最後の養蚕家神戸啓助さんが2020年にやめるまで、自宅養蚕ハウスに小学生を招き、飼育の実際を見学させてきた。次の世代に養蚕文化をなじませたい一心からだ。
人が蚕を育て、蚕が人を成長させる。そう言っていいほど農山村の隅々で豊かに人材が蓄積された。戦後の日本経済を成長させた精密機械工業も、蚕糸業を土台に成り立っている。
産業としての蚕糸王国は過去のものになったにせよ、蚕が地上に存在する限り、人と織り成す文化は絶えない。
(おわり)
一口メモ[日本の養蚕ピーク時]
1930(昭和5)年の全国指標。①養蚕農家戸数 220万8千戸②桑園面積 70万8千㌶③収繭量 39万9千㌧。戦後のピークは昭和40年の収繭量19万6千㌧。
2022年12月17日号掲載
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