時代の荒波 情け容赦なく
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信濃の国 四番
尋ねまほしき 園原や
旅のやどりの 寝覚の床
木曽の桟 かけし世も
心してゆけ 久米路橋
県歌「信濃の国」は軽快・勇壮な曲が4番で一転、情感豊かに変わる。そのまま久米路橋や姨捨山などの歌枕を登場させ、再び歯切れよく5番の〈旭将軍 義仲も〉と続く。
犀川の渓谷に架かる古来の名勝、久米路橋から下流2キロ余り、左岸の信州新町平水内地区に1967(昭和42)年、須坂に本拠を置く組合製糸北水社が進出した。時代の先端をゆく本格的な製糸工場だ。蚕の飼育—繭の生産—生糸の製造と、一貫したコンビナート実現の夢が大きく膨らむ。
製糸工場には原料繭の確保が死活問題だ。養蚕の大型化を進めた農家にも、身近に存在する製糸工場は心強い。犀川丘陵の西山一帯に展望が開けた。
ところが、時代の潮流は国内外ともに激し く動いていた。信州新町が収繭量50万キロ達成の祝祭にわいた74(同49)年、日本の誇る生糸輸出が終わりを告げる。荒々しい時代の波が押し寄せた。価格の安い外国産生糸の大津波だ。中国、韓国、北朝鮮、ブラジルなどからの攻勢が続く。
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62(同37)年に生糸の輸入が自由化されて以降の流れをたどると、1年目は試験的に1俵(60キロ)だけ。64年も429俵止まり。65年になるや5451俵と一気に、13倍にもなるすさまじさだ。
さらに66(同41)年には2万俵を超える。一方の輸出は、この年に1万俵台を割り込んで9千俵弱だ。何と輸入量が輸出量を上回ってしまった。生糸の輸入が自由化されてわずか4年、輸出によって成り立っていた蚕糸王国の足元は、土台から掘り崩されていった。
象徴的だったのは84(同59)年、期待を寄せた北水社が閉鎖に追い込まれたことだ。内外価格差の対抗しようもない現実を突き付けられる。
養蚕立国の夢が崩れゆく困難に身を置きながらも西山の人たちは、決してくじけるようなことはなかった。時代の厳しさを冷静に探り、時には先取りもしつつ、果敢に新たな道を見いだそうとする。
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信州新町の最も西寄りに、旧北安曇郡八坂村(現大町市)から編入合併した左右(そう)地区がある。養蚕の盛んな所だったが、その最盛期に6軒の農家で民宿を始めている。併せて観光を視野に肉用種の羊、サフォークの里づくりにも取り組んだ。
近年、そのサフォークを活用したジンギスカン料理が町の名物となっている。養蚕が山村の貴重な現金収入であると同時に、それただ一つに頼ろうとしない。視角の広さに感心させられる一例だ。
一口メモ [組合製糸]
器械製糸の場合、会社組織の経営する営業製糸と協同組合が運営する組合製糸があった。後者は農家自らが自分たちの作った繭を、自らの手で生糸にする理念に基づく。
2022年12月3日号掲載