ひたすら繭の増産に向け
総て皆 ベルトコンベアーに 運ばれし
桑も蚕も 生きてはたらく
唐木 衛
〝養蚕工場〟うまれる本村(ほんそん)の機械化養蚕―。
大胆で先進的な試みを、こんな大見出しで晴れがましく伝えている。昭和42(1967)年9月1日付の「広報信州新町」だ。町の最も北寄り、山ひとつ越えれば小川村という越道本村でのことである。
工場の間口が34・65メートル、奥行き92・7メートルもあった。まるで体育館を思わせるほど大きな蚕室に驚かされる。この中に長さ24メートル、幅2メートルの蚕座、つまり蚕を大きく育てる装置が32段備わっており、自動的に動いていく。
そこに載って蚕が運ばれると、長さ15センチほど枝ごと機械で細かくされた桑が落とされる。人の手を煩わさないで蚕に餌が与えられる給桑システムになっていた。
古来、日ごと大きく成長し、食欲盛んな蚕に桑を絶やさず配り続けることが、養蚕農家にとって一番苦労だった。一家総出の作業が機械化されれば、一気に省力化が進む。大量飼育への道も開かれる。養蚕工場には農家の夢物語が詰まっていた。
昭和40年代から50年代初め、信州新町の養蚕は最も盛んだったと、実際に携わった人たちは異口同音に振り返る。実情を確認しようと統計数字を調べ、気づくことがあった。
それは最も盛りとされる期間でも、養蚕農家そのものは、急速に減り続けていることだ。一方で繭の生産される量、いわゆる収繭量は町全体で増産、ないし緩やかな減少程度でとどまっている。養蚕戸数が減っていく分を、1戸当たりの大規模化で補った格好である。
農水省関東農政局が長野県の市町村ごとにまとめた養蚕累年統計によると、信州新町の場合、農道開設など農業構造改善に取り組む直前の1961(昭和36)年、養蚕農家は1420戸だった。5年前と比べてもわずかな右肩下がりで推移している。
ところが高度経済成長を迎えた71年には、工場勤めに人が流れ1130戸に急減した。74年に千の大台を割り、76年には920戸である。それでもなお養蚕を続ける人たちは、互いに才覚を働かせつつ、繭の増産に励んだ。
ほとんどが傾斜地の風越集落で機械化養蚕の先駆者とされた黒岩匡良さんは、3階建てエレベーター付き飼育棟に、多段式の施設を整えた。こうした養蚕家の熱心な取り組みで、町の収繭量が500㌧を超えるまでになる。
昭和49年には「まゆ生産50万キロ達成」と銘打って町の記念式典が開かれた。まさに信州新町、さらには西山地域養蚕の絶頂期だ。
一口メモ [条桑育]
桑の葉を摘み取らず、葉のついたままの枝を蚕に与える飼育方法。桑摘みは主に女性の仕事だったので、女性にのしかかる養蚕の過重な労働を軽くする効果が大きかった。
2022年11月12日号掲載
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