135 ずくと知恵の遺産05 農道の効用

省力養蚕が動き始める

西山を代表する養蚕地帯だった信州新町上条地区

 文部省唱歌

  川中島

 千曲・犀川 二川(にせん)の間 甲越二軍の 戦場ここか

 海津の城跡 僅かに残り 見渡す限り 桑畑しげる

 

 明治45(1912)年制作文部省唱歌「川中島」の1番。尋常小学校第3学年用だ。千曲川と犀川の落ち合う川中島平、甲州武田と越後上杉両軍がぶつかった古戦場に残る海津城の跡に立てば、見渡す限り桑畑が広がる。

 急傾斜地の耕作に苦労する西山地区の農家にすれば、平地に開けた桑畑がうらやましかったに違いない。何とかしたい気持ちが、農道の開設に集約する。それは国や県が後押しする農業構造改善事業に限らなかった。

 歴史をさかのぼると例えば1953(昭和28)年に信州新町の前身、上水内郡水内村で開かれた郷土研究振興大会に注目できる。席上、一人の農業青年が「まず農道を開発せよ」と訴えた。以来、10年越しの農道普及だ。

稚蚕共同飼育所の桑摘みにトラックで出発する女性たち。「養蚕の思い出」掲載

 その推進役を第一線で担ったのが、「お蚕先生」と呼ばれた蚕業技術員たちである。長野市安茂里の関崎富治さん(85)は60(同35)年4月、長野県養連の駐在養蚕技術員として信州新町の水内農協に赴任した。

 新入りのお蚕先生ながらも、地区ごとの稚蚕共同飼育所に加わる農家を、自転車に乗って回る。実際に蚕を飼う苦労話を聞くにつけ、(1)能率の悪い桑園が多い(2)人手が少ない(3)規模が小さい—などのために、意欲が伴わないことに気付いた。

 そこで、お蚕先生自らが県養連からクローラートラクターを借り、桑園改良、農道開設に乗り出した。町の農業構造改善事業と相呼応することになり、地域全体に新たな養蚕への機運が高まる。

 一連の実践は67(同42)年、全国蚕業技術員体験発表会での関崎さんの報告で最優秀賞に輝いた。確かに農道が通じることの効果は多岐にわたる。桑に欠かせない肥料を施すにも、滑り台のような坂道を背負子(しょいこ)で運ぶのでは思うに任せない。たとえ砂利道でもガートラを使えば2倍も3倍も運び入れ、堆肥も投入できた。

 関崎さんが退職を機会に自費出版した回顧録「蚕 回顧 懐古」によると、豊富な肥料によって桑の伸び方が違った。葉の色つやが良く、繭の品質向上と増産につながる。難しかった養蚕の機械化に向け、足がかりを用意した意味も大きい。

 よく伸びた桑の枝はそのまま刈り取り、ガートラで運んで枝ごと蚕に与える条桑育が普及した。一枚一枚指で葉を摘み取るよりは、省力化、能率化が大いに進んだ。本格的な機械化へ向け、信州新町挙げて取り組みが始まる。

 
一口メモ [稚蚕共同飼育所]

卵からかえったばかりの稚蚕は病気にかかりやすく、飼うのが難しい。そこで普通は1回脱皮して2齢になるまで、専門的な人たちに育ててもらう共同施設のこと。


2022年10月29日号掲載