132 ずくと知恵の遺産02 養蚕立国の夢

西山地域が果敢な挑戦

山深く穏やかにたたずむ信州新町信級

 日本は 戦争に負けたが 元気出して蚕 飼おう


 更級郡(信級)(のぶしな)村(現長野市信州新町)のお蚕先生

 

 驚きと感動を覚えずにおれない。日本中が打ひしがれているさなか、新たな一歩へ踏み出す方向を指し示し、勇気を鼓舞する言葉が、語られていた。そのことに対してである。

 しかも、いつ、何どきのことかといえば、1945(昭和20)年8月16日だ。前日8月15日には、昭和天皇が〈耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…〉と、玉音放送で終戦を告げている。国民の多くは、半ば放心状態にあった。

 そんな不安、動揺にめげず、農家を回って蚕の育て方を教える技術員のお蚕先生が、村の人たちに、まずは蚕を飼うことだ、と呼び掛けた。犀川の支流が織り成す谷深い山坂を越え、やっとたどり着く小さな村、信級である。

いまだ若々しく農作業に励む関口近夫さん

 長野市信州新町公民館が、2016年3月に発行した「養蚕の思い出 昭和を駆けぬけた農家たち」のエピソードの一つとして登場してくる。

 信級村長者集落の急傾斜地で、麻の栽培や養蚕、あるいは炭焼きに携わってきた関口近夫さん。昭和10年生まれだから、当時まだ10歳ながら〈今も心に焼き付いている〉印象に深い思い出だ。

 それというのも終戦の翌16日が、各家ごとに生まれて間もない蚕が手渡される大切な配蚕の日だった。近夫少年は犀川丘陵の代表的な里山、長者山(1160メートル)直下の家から役場などのある村の中心まで4キロほど下り、受け取るお手伝いをしたので、よく覚えている。

 どんなにきつい坂の畑であろうと、桑ならば立派に育つ。まさに「国破れて桑畑あり」。この翌年の昭和21年9月、日本政府は連合国軍総司令部(GHQ)の指示に基づき、生糸増産へ向け、蚕糸業復興5カ年計画を策定した。

 これに呼応する動きが、全国各地に広がる。里の村でも山奥の村でも、桑栽培の機運が高まった。戦後、蚕糸業に力を注いだ地域といえば、長野県では代表的な一つに、善光寺平から眺めて西側、犀川沿いの西山地区を挙げることができる。

 「上水内郡誌」に倣って合併前の町村名で言えば、犀川流域に属する信級・日原・牧郷・水内・津和といった現長野市信州新町地域である。犀川の支流、土尻川流域では、上水内郡小川村の北小川・南小川、今は長野市中条の日里・栄、長野市七二会。さらに信更村など犀川以南の更級郡下だ。

 分けても水内、津和をはじめとして信州新町は、町を挙げてといっていいほど、蚕産業に期待を寄せた。「養蚕立国」の夢実現へ、ずくと知恵の総力を傾けることになっていく。


2022年9月17日号掲載