食糧難を救ったお蚕さん
配給の 小麦粉わづか もらひ来て 雑炊造りて すする日々なり
根岸 茂
食ふ草よ 草よ草よと 誰も皆 花見にと来て 草を摘むなり
山田尚(ひさ)子
(昭和万葉集より)
戦争が終わり空襲の恐怖から解放されると、今度は空腹の脅威にさらされた。戦時下でも迫りつつあった食糧難が、昭和20(1945)年8月15日以降なお加速し、国民の多くを苦しめ悲嘆させる。
昭和54(79)年2月より2年近くかけ、講談社が刊行した「昭和万葉集」の巻6には〈銃後の国民生活〉が、生々しく詠み込まれた。配給米だけでは足りず、草を摘んでまぜ、量を増やすなど懸命に飢えをしのぐ。
それもまだ、いい方だった。戦後、敗戦で失った台湾や朝鮮半島などから引き揚げ者が続々加わってくる。食糧の不足は急激に深刻化。子どもたちはやせ細り、大人の餓死者まで出る急迫状態に陥る。
食べ物を輸入しようにも、焼け野原と化した日本の政府には金がない。この窮状に救世主さながら登場したのが生糸だ。最大の買い手だった米国と戦争し、断絶させられた生糸輸出が許される。再び生糸が、外貨稼ぎの先頭を担うのだった。
終戦の翌昭和21年3月18日、横浜港から生糸1500俵(1俵=60キロ)を積み込み、米国船マーリン・ファルコン号が出航した。目指すは太平洋岸北西部の港シアトル。盛大な祝賀行事に見送られての船出である。
蚕糸王国信州を筆頭に世界に誇ってきた日本の生糸だ。とりわけ米国女性のストッキング用に織る糸として評価が高い。平和であればこそなのに、昭和16年12月の真珠湾攻撃で、完全に断たれるほかなくなった。
以来5年ぶりの再開である。しかも切羽詰まった食糧問題の行方がかかっている。日本政府は、すべての権限を握る連合国軍総司令部(GHQ)に対し、生糸1俵当たり米穀換算45石(1石=150キロ)の食糧を要請した。
応じた米国は小麦、小麦粉、その他食糧を毎月15万㌧輸出すると約束した。日本からは3月21日にも第2便が、生糸を届けに米国へ向かう。こうして5月にかけ、5万俵に上った。そのころ「繭も食糧なり」とたたえられた背景が納得できる。
令和の今日も当時の困窮は、語り伝えられている。けれども食糧確保のため、生糸の貢献した肝心のところに思いが及ぶことは、決して多くない。
思えば明治初め日本が、近代国家を目指すに当たって必要とした膨大な外貨も、農山村で育てた繭から繰る生糸が稼ぎ出した。そして再び食糧難を生糸に救われる。お蚕さんの命のおかげで私たちは、今を生きている。
一口メモ[俵(ひょう)]
生糸を出荷する際の荷造りには、国内向けの梱(こり)と輸出用の俵がある。重さは梱が約9貫=33.75㌔。俵が16貫=60㌔。船積みするにはしっかり防水の覆いをし、縄で締めた。
2022年9月3日号掲載
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