西条から岡谷の製糸場へ
中央線鉄道唱歌
福山寿久作詞
福井直秋作曲
46
山また山を 貫きて
出づれば「西条」停車場
「麻績」の駅を 過ぎてまた
トンネルくぐる冠着山
繭から生糸を器械で作る製糸業では、動力源の燃料確保が必要不可欠だった。明治の初め製糸場の規模が小さな段階では、水車が多く使われている。
大規模になるにつれボイラーで蒸気を発生させ、動力とするよう切り替わっていく。燃料は当初、まきや炭を近くの山林から運び入れた。林は次第に禿(はげ)山となり、入手先を遠くまで探して苦労する。
こうした折、救世主さながら登場したのが鉄道だ。大量に、また迅速に運搬できる手段は、原料の繭や製品の生糸だけでなく、燃料輸送にも威力を振るった。
典型的な事例を国鉄時代の篠ノ井線に見ることができる。ちょうど1900(明治33)年の11月、篠ノ井―西条間が開業。その先、明科との間の白坂峠をトンネルで抜ける難工事を経て02(同35)年12月、塩尻までの66・7キロが全通した。
中央線鉄道唱歌には篠ノ井線のくだりも登場する。その46番で歌う通り、〈山また山を貫きて〉の開通である。そして〈出づれば「西条」停車場〉が重要な役割を果たす。
質はやや劣りながらも石炭が、近在から掘り出されていたからだ。駅が設けられた旧東筑摩郡本城村(現筑北村)を中心に、坂北・麻績・生坂・坂井・会田など、かなり広い範囲に及んでいる。
篠ノ井線は、この石炭の販路を一気に拡大した。とりわけ生糸の一大産地を形成しつつあった岡谷の製糸家たちが、これを見逃すはずはない。西条駅から終点塩尻駅へ運ばれた石炭を、今度はスキーリフトのような索道で岡谷へ空中輸送する。
その頃まだ中央線は、塩尻まで通じていない。標高1000メートルほどの塩尻峠を荷馬車で上り下りするのでは限りがあった。鉄路とケーブルを組み合わせた〝石炭の道〟が、燃料不足の製糸業に活路を切り開いたのだった。
それも06(同39)年6月、中央線が岡谷から塩尻まで延びて役割を終える。04年に運転を始め2年2カ月の短い間ながら、何事にも挑戦する製糸家たちのチャレンジ精神が、ここでも躍動した。
いま西条駅から往時の善光寺街道を南へ向かえば、ほどなく筑北村西条の雑木林に「野口炭坑事務所跡」と書かれた標識が立つ。最も規模の大きな炭鉱だったというけれど、木々が立ち並ぶ以外に何も語るものはない。
西条の石炭が刻んだ歴史の重み―。こうした一つ一つを尽くしつつ、蚕糸王国の巨大な物語は築かれた。
一口メモ[街道のイロハ=道中図]
江戸時代の後期に至ると、庶民も寺社参りなど旅するようになる。その際のいわば道路地図。併せて観光案内も盛り込んだ絵入りガイドである。旅心も誘った。
2022年8月20日号掲載