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13 信州青年洋上セミナー

  • 4月12日
  • 読了時間: 3分

団長を務め345人と中国へ 一人一人に手紙書き渡す

今も手元に残る30年前の寄せ書きのTシャツとパンツ
今も手元に残る30年前の寄せ書きのTシャツとパンツ

 1994年、清掃工場のごみ投入フロアを会場とした環境ファッションショー開催の翌日は、新聞各紙が大きく取り上げてくださり、テレビでも番組になるなど、それらを見た多くの人から「すごかった」「考えさせられた」など、たくさんの反響が想像以上に寄せられました。


 いただいた言葉にうれしさを感じながらも、1回だけのファッションショーをまるで花火を打ち上げたようにも感じた私は、どこかで継続的にできなければ意味がないと、ジレンマを抱えることになりました。


 そんな中、翌95年は、私にとっていろいろな意味で思い出深い年となりました。一つ目は、学校が創立50周年を迎え、翌年母から私へ校長のバトンが渡されることになったこと。二つ目は、その後の人生を変える「環境ファッション」を継続して発信できるサスティナブル繊維「ポリ乳酸」との出合い。三つ目は、全く予期しなかったこととして、「信州青年洋上セミナー」の団長を務めたことです。

第22船信州青年洋上セミナー長野地区報告書(1995年)
第22船信州青年洋上セミナー長野地区報告書(1995年)

 信州青年洋上セミナーは、74年から2001年まで28年間にわたって実施された県事業です。長野県内の青年が洋上で生活と研修を共にし、友情を育みながら友好都市である中国の石家荘市の人たちと交流を深める11日間。この洋上セミナーに関わっていた青年会議所の大先輩から、「初の女性団長をやってほしい」と突然お話をいただいたのです。それまでは大手企業の社長さんなど、男性が団長を務めてきました。私にできるかかなり悩みましたが、結果お引き受けすることにしたのです。


 私が団長を務めた第22船の団員は総勢345人。大きな一つの組織のように全員が各々のポジションと役割を持ち、研修を重ね、交流を深めていく毎日。これだけたくさんの人たちのリーダーとなって副団長や各部長と共に皆をまとめていくには大変なエネルギーが必要でした。


 そんな中、団長として私にできることはなんだろう…と考えついたのが、仲間たち全員にメッセージを書いて送ることでした。とはいえ、さすがに全員の顔を覚えることは難しく、6月から始まった第1次研修、第2次研修の折に参加団員とツーショットで写真を撮り、その時の印象を頼りに、「自分の持つ可能性の大きさに気づいてほしい」と一通一通、345人一人一人に手紙を書き続け、11日間続いた洋上研修最終日の「さよならパーティー」の終わりに全団員にその手紙を渡しました。


 普段の生活では、業界や分野も違って、出会うことがないかもしれない人たちが一堂に集まって、協力し合いながら共に成長していく研修は、私にとっては初めての経験でした。また、団長としての責任から、何より事故なく全員が「参加してよかった」と研修を終えるために常に張りつめる神経は大変なものでした。しかし、団員の皆に支えられ、大きな達成感とともに感謝の涙で下船したことを今も覚えています。


 洋上セミナーを終えてからほどなくして、アパレル業界紙「繊研新聞」で、海鳥が釣り糸をのどに絡ませて死んでいるという記事を目にしました。読み進めると、環境問題の解決策として、土や水の中で数年で生分解するトウモロコシのでんぷんから作った「ポリ乳酸繊維」のことが紹介されていたのです。私は居ても立ってもいられずに、すぐに新聞社に連絡し、「この糸を手にしてみたいのだけれど紹介していただけないか」とお願いし、開発途中にあった企業を訪ねて行ったのです。


 後にこの糸との出合いは、私に「環境に配慮した洋服を継続的に作るデザイナーになりたい」と、はっきりとした思いを抱かせてくれるものとなりました。


(聞き書き・中村英美)


(2025年4月12日掲載)

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