蚕糸業の飛躍へ熱い願望
汽車ポッポ
富原 薫作詞
草川 信作曲
汽車 汽車 ポッポ ポッポ
シュッポ シュッポ シュッポッポ
僕等をのせて
シュッポ シュッポ シュッポッポ
スピード感あふれるメロディーが、鉄道で活気づいた時代の勢いを今に伝える。長野市松代町の旧長野電鉄河東線松代駅には、創立当初からの駅舎に寄り添うかのように、歌碑が立っている。
けれども、肝心の線路が通っていない。車社会の大波に抗しきれず、屋代—須坂間(屋代線)が2012(平成24)年4月1日、惜しまれながら廃止されたからだ。
「河東」とは文字通り河(かわ)の東、ここでは千曲川の東側を指す。上流の屋代から松代—若穂—須坂—小布施—中野—木島へと結んでいくルートだ。1922(大正11)年6月10日、屋代—須坂間24・4キロで開業したのが河東線の始まりだった。
注目したいのは、鉄道建設にかかわる大正・昭和初期の大きな流れだ。1893(明治26)年の信越本線全通、9年後の篠ノ井線開通、明治45年の中央本線全通により、信州の鉄道は骨格が整った。
とはいえ広い長野県では、鉄道の恩恵が及ぶ地域は限られる。長野県史第8巻によれば、鉄道の全く通らないところが、16郡中の7郡。北端の一部をかすめるだけの上伊那を加えれば半数に上った。
既に製糸業の中核を担う伊那谷の人たちが、民間自力で伊那電気鉄道、後の飯田線を敷設し、空白を埋めようとしたのも無理はない。事情は北信の河東地域でも同じだ。
松代は明治初め、いち早く官営富岡製糸場に倣い、独自に西洋式器械製糸の六工社を創立している。小布施も中野も器械製糸に挑んだ。須坂は全国に誇る一大生糸産地を実現する。河東地域一帯が蚕糸業で足場を固めていた。
だから千曲川の対岸、豊野や長野に直江津から延びる信越本線の新時代を告げる鼓動が響くにつけ、心穏やかにしておれない。こっちにも汽車を走らせたい—。熱い願望が高まり、信越河東鉄道期成同盟会を結成する。
時を同じく佐久鉄道(後の小海線)も、屋代—須坂間に新たな計画を準備していた。互いに目指すところは一つ。同盟会と佐久鉄道の間で河東鉄道株式会社が発足し、大正11年の開業となる。
まだ、蒸気機関車の時代だ。まさに〈シュッポ シュッポ シュッポッポ〉。地域の期待を乗せ、一番列車が出発する。翌年には信州中野まで、2年後に木島まで延びていった。
それは河東地域が生糸を通じ横浜港、そして輸出先の米国へ視野を広げ、一段と羽ばたくことでもあった。
2022年6月4日号掲載