121 信州シルクロード13 横浜開港以前

絹の道は京を目指し西へ

馬が描かれた分水嶺公園の案内板

 みちのくの しのぶもぢずり 誰(たれ)ゆゑに

 乱れそめにし 我ならなくに 「百人一首」より

 

 忍ぶ恋に心乱れる切なさを〈あなたのせいです〉と訴える。小倉百人一首の14番目。古今集が出典の河原(かわらの)左大臣の恋歌だ。

 注目したいのは恋の行方ではない。〈しのぶもぢずり〉に象徴される生糸で織った布のことだ。シダ植物の一種、シノブグサを布地にこすりつけて乱れ模様に染める。平安貴族たちの衣装を優美に彩った高級絹である。

 東北地方でも伊達・信夫地方、現在の福島市・伊達市が主な産地とされる。はるばる京の都まで運ばれた。古今集にも百人一首にも選ばれるほど広く知られていたのだ。

 ところで、貴族社会が武家社会へ移るや質素倹約、質実剛健の気風に押され、絹文化は衰退に向かう。安土桃山から江戸初期、能装束や小袖などの高級織物用に中国産生糸が盛んに輸入され、代金の支払いで国内の金銀銅が枯渇するまでになった。


信州と結ぶ三州街道の拠点豊田市足助(あすけ)宿

 ために幕府は、輸入の制限に乗り出す。生糸が足りなくなり、国内に新たな産地が興隆してくる。伊達・信夫をはじめ上州、信州、甲州、武蔵などだ。稲作の広まった西日本の平野部とは異なり、水田に適さない山間地農業の東日本に多い。

 これらの地域の生糸が、中国産に代わって絹織物の一大産地である京都の西陣へと運ばれた。都へ〝のぼる〟故に「登(のぼ)せ糸」などと称される。生糸が国内消費に限られていた横浜開港以前は、そのルートが日本の主要なシルクロードだった。

 都から東北方面へは古代から内陸部を貫くように、いわば国道の東山道が通っていた。これを主軸にさまざまな道が都へ通じる。例えば信州のほぼ真ん中、中山道塩尻宿と分岐し伊那谷を東海方面へ南下する三州街道(伊那街道)がそうだ。

 塩尻宿を出て程なく標高889メートルの善知鳥峠を越える。北は信濃川を経て日本海、南は天竜川から太平洋へ雨水を分ける分水嶺だ。「水の分かれ」の碑が立ち、公園の案内板には馬が描かれている。

 ここは荷物の運搬に馬が大活躍し、中馬(ちゅうま)街道とも呼ばれた。もともとは農家が農耕用の飼い馬を使い、農閑期に街道の荷物を運んで駄賃稼ぎをしたことに始まる。やがて専業の運送業者に成長した。

 宿場ごと人馬を替え、荷物を積み直す問屋と違って送り先へ直行する。安く、速く、荷を傷めず評判がいい。使われた馬は、多くがずんぐり太っておとなしい木曽馬だった。

 京へ向かう登せ糸は、1859(安政6)年の横浜開港を境に、浜へ浜へと方向を変えた。そして街道から鉄道へ時代は大きく移っていく。


2022年4月2日号掲載