甲州街道を八王子経由で
鉄道唱歌
大和田建樹補作
多 梅稚作曲
(五)
鶴見神奈川 あとにして
ゆけば横浜 ステーション
湊を見れば 百舟(ももふね)の
煙は空を こがすまで
欧米列強の圧力に屈し、幕府が開港に踏み切った1859(安政6)年当時、横浜は戸数わずか100足らずの寒村にすぎなかった。160年後、令和の今は人口376万人余り。第2、3の大阪市(274万人)や名古屋市(232万人)と比べても抜きん出た規模を誇る。
1872(明治5)年10月14日、新橋―横浜間約29キロで日本初の鉄道が開業した。これよりほんの10日早く、群馬県では西欧式器械製糸の模範工場として、富岡製糸場が操業を開始している。
けれども鉄道がシルクロードの役割を担うのは、まだ先だ。17年後の1889(明治22)年、新橋―神戸間約600キロの東海道本線が全通した。だから10年余りたつ1900(同33)年発表の鉄道唱歌も〈汽笛一声新橋を〉で始まる。
品川・川崎・鶴見・神奈川と続け、晴れやかに登場するのが〈横浜ステーション〉。開港時の小さな漁村が大きな変貌を遂げていたのだ。英語を用いて新時代を際立たせ、外国船ひしめく港の活況を高らかに描写する。
貿易船が出入りするというのに、開港直前まで横浜村には、物資を大量に運搬できる広場も道もなかった。幕府は急ぎ入り江を埋め立て、東海道神奈川宿と結ぶ道路を切り開く。まさに突貫工事で外国商人が買い求める生糸や茶を港へ運び込むルートが整った。
対照的に生糸の産地は、海のない内陸地帯に多い。長野県をはじめ群馬、山梨、埼玉などである。これらの地域の製糸場から横浜港へ、製品をどう運ぶか―。舟運の盛んな利根川などとともに、陸路では甲州街道の八王子宿が、横浜への中継地として大きく浮上する。
現在の東京都西部、多摩丘陵の一角に位置し、もともと養蚕や絹織物業が盛んだった。しかも多摩丘陵を越して横浜方面へ街道が延びている。開港に伴う生糸貿易にかかわる地の利があった。
例えば、明治半ば〝蚕糸王国〟となった信州製糸の主力、岡谷産の生糸は鉄道が開通する以前、中山道下諏訪宿の下社秋宮前から分岐する甲州街道を八王子へ向かった。あるいは伊那谷の生糸も多くが、甲州街道を進み八王子経由で横浜港へ運ばれた。
港の周辺こそにわかな工事で道路が整えられたけれども、そこに至るまでは、江戸幕府が営々として築いた五街道はじめ既存の道がシルクロードになっている。それは馬や牛の背に生糸を結わえ、大八車に山積みして汗を滴らせた道だった。
2022年3月19日号掲載
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