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12 永六輔さんとの出会い

婚約者の手紙によく登場 50年にわたるお付き合い

 1964年、神戸港から貨物船で1カ月がかりでオランダ入りしたフィアンセの由良さんは、3年ほどの予定で現地のホテル「アムステルダムヒルトン」に就職しました。アムステルダムのスキポール空港は、いわゆるハブ空港で、その頃ヨーロッパを訪れる日本人はまずここに寄り、ヨーロッパの目的地に向かったようです。

 ホテルにはほかにも日本人が働いていたのかは分かりませんが、フロント業務で、日本の著名な人々のお世話もたくさんしたようでした。週に1回やりとりする手紙の中によく出てきたのが指揮者の小澤征爾さんと奥さま。擦れ違いでほかの国へ行かれるお二人から手紙を預かってそれぞれにお渡ししたとか。それに「永六輔さんもお泊まりになったよ」などと出てきて、その方たちの名前が私の記憶に刻まれていきました。

 私はこの年の春、実家である藤屋に就職しました。この頃の藤屋は父の常夫さんが社長、いち子母がおかみを務め、80代半ばであった祖母の甫は、足腰を痛めてほぼ床の上の状態でした。従業員は支配人をはじめ番頭さんが4人くらい、住み込みの女性が十数人いました。みんな見知った顔ぶれで、私のことを自然に受け入れてくれたように思います。

 旅館業は朝から晩まで、次から次へと忙しく、たくさんの仕事がありました。新入社員の私は清掃の仕事以外、できることは何でも覚えようとがむしゃらに働きました。しばらくしてからはお客さまをお迎えするフロント業務と事務が主な仕事になっていくのですが、それは祖母の世話をしながらの毎日でもありました。

 明治生まれの祖母は、歩けなくても毎朝洗面をして髪を結い、昼間の着物に着替え、帯まできちんと締めるとまた床の上に横になるのです。祖母を専門に見てくださる女性が1人ついていましたが、髪を結うのは、私かお気に入りの従業員のチエさんのどちらかでした。

 そんなある日のこと。常夫社長が東京から見えたそば好きの友人を「大久保の茶屋」へ案内する機会があり、私も一緒に連れていってくれました。席に着き、おそばを食べていた時に、奥の方から聞こえてきたのが、あの独特の永六輔さんの話し声でした。私ははっと、彼がよく手紙に書いてきた「永さんだ!」と思いました。そして気付けば、なんのちゅうちょもなく永さんの所に行き、自分は「アムステルダムにいる由良さんの婚約者で、善光寺のそばで旅館をしています」とごあいさつしていました。永さんは「あっそう?」とおっしゃいました。これがその後50年にわたる永さんとのお付き合いの始まりでした。

 小さい時は恥ずかしがり屋で、あまりしゃべるのが得意ではなかった私が、勇気を持って初対面の永さんにお話しできたのは、やはり学園での体験があったからかもしれません。永さんは、この後1年もたたないうちに藤屋を訪ねてくださいました。そしてそれからは長野へいらした時には藤屋へ泊まってくださるようになりました。

 藤屋で働き始めたこの年、私は仕事の合間を縫って自動車教習所へ通いました。ようやく一般家庭に車が普及し始めた頃でした。独身の間にできることは早くと思ったのでしょう。ここで学科教習は終えましたが、技能教習が5、6時間残ってしまったため、技能試験を受けられる一発試験に臨んで運転免許証を頂きました。折しも受験の日はクリスマス。試験官が「クリスマスプレゼントだよ」と合格を告げてくれました。

 聞き書き・中村英美


2023年2月4日号掲載

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