119 信州シルクロード11 利根川の舟運

横浜港への大動脈として

倉賀野の船着き場があった烏川

 上州小唄

   野口雨情作詞

   中山晋平作曲

(七)

桑にや川霧 桜にや日和

山には山霧 野にや<RUBY CHAR="雲雀","ひばり">

さアさ 二度摘み四度摘む桑の

摘めば緑の 芽ものびる

 

 1929(昭和4)年にレコード発売された新民謡。世界に誇った日本の蚕糸業がピークにあった頃だ。同時に米国の株価大暴落を契機に世界恐慌が始まる。翌30年には日本も昭和恐慌に陥った。

 それでも蚕糸業の盛んな群馬県が舞台の上州小唄だ。最盛期の勢いが、歌詞に映し出されている。3番にこんなくだりがある。〈利根の河原の一本蓬(ひともとよもぎ)流れ流れて花咲いた〉。この利根川こそ信州や上州産の生糸を輸出港横浜へ運んだシルクロードの一環だった。

 1859(安政6)年の横浜開港から日露戦争が終わって2年後の1907(明治40)年ごろまでの約50年間、陸路と水路を結び絹の道が栄える。鉄道網が発達する以前は馬や大八車と舟が主な輸送手段であったからだ。


舟をかたどった河岸跡の石碑

 江戸時代の後期には今の福島県を中心に東北南部が生糸の主要な産地だった。幕末から明治初期、群馬・埼玉・長野県北部にかけて広がる。明治10年代から昭和の初め、長野県南部や山梨・愛知方面へと拡大した。

 これら養蚕、製糸の盛んな一帯を横断する大河が利根川だ。群馬県北部に源を発し、千葉県銚子で太平洋に注ぐ。途中で合わさる吾妻川、渡良瀬川、鬼怒川などの支流も養蚕を育み、水運を発達させた。

 長野県と接する群馬県西部では、軽井沢の碓氷峠近くを源とする烏川が、重要な存在感を発揮する。流れ下って高崎の南東、中山道倉賀野宿で、大都市江戸との間を運ぶ物資の積み下ろし用の河岸が大いににぎわった。

 蚕糸王国信州産の生糸も、少なからず倉賀野河岸から烏川―利根川ルートを活用し、横浜港へ運ばれている。須坂など北信からは大笹街道を経て中山道の倉賀野へ。上田や小諸など東信ならば北国街道と中山道で同じく倉賀野へ。そして、利根川の舟運である。

 今の千葉県野田市内の分岐点、関宿で江戸川へと方向を変え、日本橋経由の陸路を織り交ぜ横浜を目指した。1909(明治42)年、日本は清国(中国)を抜いて世界一の生糸輸出国になる。その輝かしい栄光は、全国至る所に張り巡らされた絹の道の上に築かれている。

 ところが明治以降、河川の管理は治水に比重が移る。堤防が壁のように築かれた。舟が出入りする河岸の余地はなく、陸路と水路による交通システムも終わりを迎える。

 

一口メモ[街道のイロハ=河岸]

江戸時代、荷物や人を運ぶ川舟用に設けた着岸場。舟運が盛んになると、各地に新設され、問屋、茶店なども立ち並ぶ。もともとは舟をつなぐ杭(くい)を「かし」と呼んだ。


2022年3月19日号掲載