118 信州シルクロード10 大笹街道

米国まで夢広げた油街道

浅間山の北斜面に広がる六里が原

浅間山の 北の根にある 六里が原 六里にあまる 枯薄(かれすすき)の原  若山牧水

 

 旅の歌人若山牧水が浅間山の北側、火山活動で造り出された広大な六里が原を歩いた折の歌だ。群馬県嬬恋村と長野原町にかけ東西20キロ余り、六里に及ぶ草原や荒地である。

 その浅間山の裾野を大笹街道が貫いていた。長野市の中心市街地から東へ、屋島橋を渡り須坂市内に入ってすぐ北寄り。かつての北国街道松代道の福島宿を起点に、菅平高原を越えて上州嬬恋の大笹宿に至るのが、江戸への近道としてにぎわった大笹街道だ。

 大笹宿からは二手に分かれる。一つはそのまま利根川の支流、吾妻川の下流へ高崎に向かう大戸通りだ。もう一つは六里が原の坂を上り、今の中軽井沢、中山道沓掛宿に合流する沓掛通りである。

 1918(大正7)年11月、牧水は吾妻川沿いにさかのぼり、沓掛通り経由で既に初冬の六里が原から浅間の尾根を越して軽井沢へと下っている。


吹雪などから馬方らを救った土手道

 江戸時代後期、「東海道中膝栗毛」で流行作家に躍り出た十返舎一九も1818(文政元)年、善光寺参りのあと大笹街道をたどった。草津温泉に立ち寄るためだが、ほとほと急坂に苦労したらしい。〈ことに難渋の山道なり〉と書き記した。

 それもそのはず、福島宿を出て最初の宿場、仁礼を過ぎると菅平高原まで、きつい坂道が曲がりくねってまだかまだかと続く。

 標高差800メートルほど。ようやく平らになる峰の原からは、高さ1〜1・5メートルの土手沿いの道になる。菅平にかけて一面の草原。冬は雪に覆われ吹雪にさらされ、道を見失う遭難者が多い。盛り土をした迷うことのない土手道を築き、防ごうとしたのだ。

 これほどの難路にもかかわらず、江戸期には北信濃特産の菜種油が重い杉材のたるに詰められ、馬の背で高崎方面へ運ばれた。近くを流れる烏川の倉賀野港から舟に積まれ、利根川—江戸川を経て江戸へ送られている。

 明治時代に入ると油に替わり、輸出用の生糸である。油街道とも呼ばれていた大笹街道は、絹の道シルクロードとして新たな役割を担っていく。

 器械製糸が活気づいた須坂の中心部からは、仁礼宿に通じる道が延びている。創業間もない製糸各社が、生糸の品質向上、共同出荷などを目指し、そのために組織した結社を「東行社」と名付けた。

 つまり「東へ行く」意味である。製品の生糸を大笹街道の東、高崎へ送る。さらに輸出港の横浜へ。そこからは太平洋を横断し、米国のニューヨーク市場に持ち込む。大きな夢をはるか遠くまで広げたうえでのことだ。まさに世界と結ぶ道であった。

 

一口メモ [街道のイロハ=口留番所(くちどめばんしょ)]

 街道の通行監視のため幕府の設けたのが関所。そのほかに各地の藩が他の藩との境界などで取り締まりに当たった所。領内の産物の流出にも目を光らせた。


2022年2月19日掲載