舟と馬組み合わせた輸送
上伊那地理歴史唱歌
流れてとうとう いさましや
天竜川の 水の音
聳(そび)えてこうこう いさぎよし
両駒ケ岳の 雪の色
帆いっぱいに風を受け、舟が川をさかのぼる。流れに任せ下っていく。鉄道が普及する以前、日本各地で珍しくない光景だった。信州シルクロードも、天竜川はじめ川の存在抜きには語れない。
松代や須坂、上田など北信、東信の製糸場からは、生糸が陸路で高崎方面へ運ばれ、利根川を舟で輸出港の横浜へと向かった。上伊那地理歴史唱歌は、郷土をたたえつつ学ぶ歌の一つ。1903(明治36)年に発表されている。
まず登場するのは、天竜川の勢い盛んな流れの勇壮ぶりである。続けて雪を頂いた中央アルプス木曽駒ケ岳、南アルプス甲斐駒ケ岳を眺望した美しさに、目を向けさせる。
この天竜川こそ信州では、物と人の大量輸送を担った河川交通の代表格だった。諏訪湖に発して伊那谷を南下、静岡県境の深い峡谷を幾重にも蛇行しつつ抜け、遠州平野を経て太平洋へ流れ込む。
この間、総延長213キロ。深い山中を貫きながらも川沿いは開けており、人が盛んに行き来してきた。東西に長い本州のほぼ真ん中、並行するように数多く道が通っている。
中でも縄文時代からの黒曜石の道、塩の道として重要だったのが、天竜川の東側に位置する秋葉街道だ。あるいは西側の伊那谷を下り飯田が起点の遠州街道。信州の南端・根羽を中継し三河に至る伊那(三州)街道だ。これらの陸路では馬が活躍する。
舟と馬を組み合わせ、信州と遠州の間に大量輸送の仕組みが成り立った—。こう見るのは静岡県森町在住、遠州常民文化談話会会員で浜松市北部の水窪や佐久間などの民俗調査を重ね、交通運輸に詳しい山内薫明(しげとし)さんだ。
例えば、秋葉街道の長野・静岡県境、青崩(あおくずれ)峠は狭くて崩れやすく、馬の背で重い荷物を運ぶほかない。しかし、量には限りがある。
その点、舟の輸送力は大きい。主要な船着き場の一つ西渡(にしど)(佐久間町)に陸揚げされた荷は、浜背負(はましょい)と呼ばれる手間賃稼ぎの女性たちが高台の街道まで背負い上げたあと、馬や荷車で各地へ送られる。
火伏せの神、秋葉山信仰の道秋葉街道一帯には、網の目さながら人と物の交流する信州・遠州両翼の舞台が整っていた。南ア赤石山系の大きな山懐に抱かれた地帯である。
その中心的な宿場森町宿では1886(明治19)年、製糸業の先端を切り開きつつあった器械製糸の福川製糸が創業している。森町史下巻によれば、信州から工女と技術者を招いてのスタートだった。
2022年1月22日号掲載
Comments