111 信州シルクロード03 信越本線に吉田駅

須坂の製糸業 一段と弾み

製糸家らの請願で開設された大屋駅

古里や足地につかぬ五月晴れ

      茂呂何丸(もろなにまる)

 

 長野市街地の北東に位置する吉田地区には、かつて「吉田」の名を付けた鉄道の駅が二つあった。一つは、今と同じ長野電鉄長野線の信濃吉田駅だ。

 もう一つは、国鉄時代の信越本線吉田駅である。こちらは1957(昭和32)年、北長野駅に改称された。そのまま現在のしなの鉄道北しなの線にも引き継がれている。

 JR長野駅近くから南北に貫く中央通り。江戸時代には、この道筋に越後へ通じる北国街道が通り、善光寺境内に突き当たった。東に方向を変え、横山、相ノ木などを経て再び北に向きを転じる。

 旧水内郡吉田村の中心、本町だ。歩いて行き来する旅人や荷物を運ぶ牛馬でにぎわった。21世紀の現代に歴史をたどりつつ巡れば、あらためて特徴的な風景模様が眼前に浮かび上がってくる。

 まず江戸後期、小林一茶と同じ頃、ここ 北本町に生まれ、江戸で活躍した俳人・俳学者茂呂何丸(1761〜1837年)をアピールする地元の人たちの熱意だ。句碑が建ち、生誕地の案内板などが目を引く。

今は新幹線の高架下にある北長野駅

 加えて街道から鉄道の時代へ移り変わった姿が、街並みのたたずまいを通じ読み取れることだ。古い街道の面影の残る通りから東へ5分足らず、大きなマンションの傍らが信濃吉田駅になる。

 さらに約500メートル南、北陸新幹線の高架下が北長野駅だ。線路が斜めに上っていく途中が屋根に相当するので、出入り口や天井が低い。意外にもこの駅の、明治にさかのぼる設立経過が蚕糸業の、そして絹の道シルクロードの歴史を刻んでいる。

 1888(明治21)年12月1日、信越線が直江津から軽井沢まで開通した時、豊野駅の次は長野駅だった。このころ千曲川対岸の河東地域では、須坂を中核に製糸業が盛んになっている。鉄道を使い原料の繭を調達し、製品の生糸を出荷するには 豊野、長野両方とも遠い。

 中間の吉田に駅を設けてほしい—。製糸業者らの要望が急速に大きくなる。国の意向でなく地元の声で駅の誕生した先行例があった。中山道和田峠を挟み、諏訪や伊那谷の製糸家が働きかけ、実現した信越線大屋駅である。

 こうして98(明治31)年9月1日、念願かない吉田駅が開業した。須坂の製糸業は一段と弾みがつく。最大の生糸輸出先・米国と結ぶシルクロードの中継拠点が、身近にできた効果は大きかった。

 さて、茂呂何丸は松尾芭蕉の研究に打ち込んだ業績などが評価され、京都の二条家から俳諧大宗匠の免許を授かる名誉に浴する。まさに〈足地につかぬ五月晴れ〉の心地で故郷に錦を飾ったのだった。



2021年10月16日号掲載