株式会社「斑尾高原農場」に 真剣に「どう成長させるか」
ジャムはどんどん売れるようになり、軽井沢に毎日行かなくてはならないほど忙しくなりましたが、製品を配達するのは私一人だけでした。そんな日々に限界を感じていた時、メーカー兼問屋の「荻原製菓」(信濃町柏原)の20歳の青年だった荻原実さんが私のペンションに訪ねてきました。
実さんは仕事の傍らで、信濃町の仲間と同人誌を発行する文化人。「うちと組みませんか」という提案に、彼を信じてみようと思いました。初めて問屋さんと組み、白馬など県内のほかの地域にも販路を広げていくことができました。
売掛金の回収と納品はすべて荻原製菓さんにお願いしました。商品、企画に集中でき、全国のデパートのギフトにも展開できる余裕が生まれ、販路を広げることができました。
ペンションをやめても何とか生活できそうだという収支の数字的なめどが立ってきたので、ペンションを売ることにしました。日頃親しくしていたペンション経営者に親身に相談に乗ってもらい、買い手を見つけ、売ることができました。まだペンション人気は続いており、絶頂期に売ることができました。
居を構えるための土地探しをしながら1年ほどは、近くの別荘を借りて住みました。斑尾の保育園に通っていた子どもたちは山の生活が好きで、山に居たがりました。飯山市内で土地を探し、郊外に気に入った土地もありましたが、不動産会社の社長さんから「これから会社も伸びていく。もう少し便利な所に行かれた方がいいんじゃないですか」と言われて、考え直しました。
まゆみさんとも随分話し合いました。安心して子育てをしたいというのが、まゆみさんの強い希望。一時はまゆみさんのふるさとの横浜や、東京に住むことも考えましたが、「斑尾高原農場」という名前をつけたくらい自然が好きで、信州に強く憧れて来た自分の感覚を大事にしたいと思い、ひとまずは長野市に家を建てようと思いました。長野市なら雪も少ないし、学校に通いやすいだろうという考えで、箱清水に落ち着きました。長男は信大付属長野小学校に、次男は長野西高幼稚園(後に閉園)に入り、2人とも徒歩で通いました。
小学校へは近所の子と一緒に通い、善光寺境内を通って帰る時におまんじゅう屋さんで試食させてもらうこともあり、子どもたちは斑尾とはまた違った生活ができて楽しかったようです。ペンション時代は隣に塀がなく自由に行ったり来たりできる環境だったので、同じような感覚で学校帰りにお隣の家に行ってお茶をごちそうになったり、一人で遊びに行ったりしていました。
まゆみさんは、ペンションをやめたことで時間ができた分、英語を習ったり、テニスを楽しんだりして、自分の時間を持つことができるようになりました。子どものために料理を作るなど、落ち着いて子育てができる環境が整って、ほっとしていたと思います。
ペンションを廃業した翌年の1982年、斑尾高原農場を株式会社にしました。利益が上がって銀行の信用もできてきて、今後どう成長させるか、会社をつぶさずにどうやって続けていくかを真剣に考えていました。
このまま同じやり方でも十分利益が出ると思っていましたが、製造を委託する企画販売会社には物づくりの実体がありません。商売として効率的ではあったものの、経営形態には何か一抹の寂しさを感じていました。
聞き書き・松井明子
2021年4月24日号掲載
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