107 糸の村・糸の町34 恐慌下の農村

繭価暴落 若者は病み疲れ

泰阜村の丘に立つ金田千鶴の歌碑

 農山村

 労(つか)れはてて遠き工場よりかへり来し房江はあはれ血を喀(は)きにけり


 山村生活断片

 選抜試験に落ちて工場へ行けざりし彼の娘は日毎蝗(いなご)取りゐる

                              金田千鶴

 

 昭和恐慌のさなか、下伊那郡泰阜村で詠まれた歌だ。小題「農山村」は1930(昭和5)年、「山村生活断片」は翌年、共に当時の青春の一端を伝えている。

 作者のアララギ派歌人金田千鶴(かなだちづ)は02(明治35)年11月19日、泰阜村のほぼ中央、平島田の農家に生まれる。代々庄屋を務める豊かな家だった。

 飯田高等女学校を卒業して結婚。半年で生家に戻ったあと上京し、帝国女子専門学校(現相模女子大学)国文科に入学している。

 その金田が、貧しく病める村の少女らにリアルな目を向けた。金田自身が23歳で肺結核を患い、実家の離れで病魔と向き合う身である。同じように苦しむ後輩たちを、放ってはおけなかった。

 そんな一人が〈労れはてて〉の一首に固有名詞で登場させた「房江」だ。遠く離れた工場で働き、帰ってはきたものの血を吐いてしまった。知り合いだったのだろう。しかも同じ胸を侵された者同士であれば、切実感がこもる。

千鶴の生家(正面右)周辺の村落

 大不況に伴い働き口が見つからない若者もいる。農山村の苦悩は一様ではない。工場の採用試験に落ちた娘は毎日毎日、田でイナゴを獲っている。少しでも家のために役立ちたい思いからだ。

 少女2人の悲劇が、恐慌下の農村の陥っていく危機を深刻に映し出す。蚕糸王国信州の中でも、飯田・下伊那は最も養蚕が盛んだった。天竜川の両側に開けた河岸段丘は、格好の桑の栽培地となる。気候が温暖で特に南部では、年に5回も蚕の飼育ができるほどだった。

 普通の畑地はもとより水田にまで桑を植え、著しく養蚕に偏った農業経営が拡大する。そこへ米国発の世界恐慌だ。生糸輸出が米国に集中していただけに、相場は急落し、原料繭の価格を暴落させ、農村を直撃する。

 さらには日米関係の悪化、41(昭和16)年の太平洋戦争突入により、蚕糸業は存立の基盤を失った。農村は国策の満州移民に活路を求める。

 全国で約27万人を数えた移民のうち1割以上の3万3千人が長野県内からだ。その4分の1強、8400人まで飯田・下伊那で占める。それほど養蚕業の急速な衰退は、農村にとって痛手だった。

 組合製糸の天竜社は生糸の輸出が途絶える中、軍需向けの糸で切り抜ける。何とか存続できたことで戦後、いち早く生糸製造の再開に踏み出すことができ、地域の復興へ有力な足がかりを担った。


2021年8月21日号掲載