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09 雨宮の御神事

  • 5月2日
  • 読了時間: 3分

3年に1度の「信濃の奇祭」 詩画集発行 踊りを板画に

雨宮の御神事について作った「土霊」(左)と「雨の宮のごじんじ」
雨宮の御神事について作った「土霊」(左)と「雨の宮のごじんじ」

 4月29日、千曲市雨宮の雨宮(あめのみや)坐(にいます)日吉神社で「雨宮の御神事(ごじんじ)」(国重要無形民俗文化財)が開かれました。3年に1度開かれる祭りです。起源はよく分かっていませんが、おそらく500年を超える伝統があり「信濃の奇祭」といわれてきました。


 御神事の踊りは、真ん中に天狗の面を着けた御行司、4カ所に獅子、その間に地元の神々やお稚児、一番尻に唄歌いや太鼓—と、総勢120人ぐらい参加し、大きな祭りでした。


 昔は雨宮だけでなく、僕の家のある森村でも御神事が開かれていました。明治以前はもっと多かったそうです。しかし、明治政府による神社合祀で一村一社となり、御神事が毎年開かれなくなり、廃れていきました。


 そうした苦難の時代に、旧更埴市議や千曲市議を務めた故田沢佑一さんのおじいさんが御神事や雨宮のお宮などについてまとめた本を出すなどの尽力もあり、雨宮の御神事は続いています。


 一村一社になって、森の御神事をやろうとしても、神社の祭りとして許可されなかったこともあったようです。それでも、僕が見た御神事は村の祭りという感じがあって、迫力があり、にぎやかでした。


 森の神社は大宮神社といい、諏訪神社の系統です。だから御柱祭もあります。僕は諏訪に親戚があって諏訪の御柱祭も見て知っています。諏訪には諏訪大社以外にも小さなお宮があって、それぞれで御柱祭をやっています。祭りというのは、村などの共同体の人々がまとまって生きていくために必要だったのです。


 森の御神事に参加して、踊りを踊ったり太鼓をたたいたりする役を担うのは、当時、家の長男だけでした。「長男にあらずば人にあらず」といわれていました。祭りが近づくと、兄が神社から面やら衣装を借りてきて、床の間に置いておきました。その衣装箱を開けて見ていただけで怒られました。「見るのもいけない」と。そういう意味では僕は御神事について屈折しています。


 御神事に関する僕の詩と、さまざまな土霊の踊りの板画を掲載した詩画集「土霊」を1983(昭和58)年、発行しました。2008年には板画集「雨の宮のごじんじ」を発行しました。日本板画院展に出品した、御神事に関する板画作品を特集し、「雨の宮の御神事とはこういうものだ」というような作品集でした。


 御神事の歴史を知る中で一番すごいと思ったのは、千曲市の森の辺りから松代、小布施にかけての一帯はかつて城興寺(じょうこうじ)という寺の荘園だったということです。城興寺は今も京都市にあります。藤原道長の孫・藤原信長が住んでいた邸宅「九条殿」に、大仏を安置する「城興院」が設けられたのが始まりです。


 その九条城興寺領は戦国時代に、村上氏の一族の清野氏の領地になりました。その清野氏が、当時廃れていた御神事を再興したとされ、僕の菩提寺である森の禅透院には清野氏の位牌(いはい)が預けられています。御神事があると、祭りの一行は必ずお寺に寄って、舞を奉納していました。続けてこられたのは清野氏のおかげという感謝の意味だったのでしょう。僕の家にも、兄が役をやった時には、御神事の行列がやって来ました。座敷を通り抜けるだけでしたけどね。


 祭りの行列というのは、南信地方の古い祭りなどを見てもそうですが、村の境を巡ります。「境決め」なんですね。


(聞き書き・吉村英樹)



2026年5月2日号掲載

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