昼食は生徒ら500人一堂に 学年ごと交代で食事作る
自由学園での生活が始まってびっくりしたのは、中学1年から学部(短大に相当)2年までの女子部の生徒ら500人が毎日食堂に集まり、昼食を共にしていたことでした。そしてその食事はすべて生徒たちの手作りでした。
普通科(中学)1年は月曜日、主にご飯とみそ汁を中心にした和食を。火曜日は2年の担当、水曜日は3年といった具合に、土曜日まで、学年ごと交代で毎日全員分の食事を作りました。
調理にあたっては外部から専門家が指導に来てくれることもありました。高等科(高校)になると中華料理を、スリットが入ったすてきなチャイナ服を着たマーさんという名の中国人女性の先生が教えてくださいました。3年の時には、フランス料理を日本に広めた功労者である帝国ホテルの村上信夫シェフがフランス料理を教えてくれました。
まきをくべて大きなかまどでご飯を炊く係、ひたすらキャベツを刻むサラダの係。各係ともリーダーと各自の役割を決め、みんな見事にリーダーに従って働きます。
学校のランチは同学年で調理を担当しますが、寮の朝夕の食事は中1から学部2年まで各学年1人ずつ、8人が暮らす各部屋が順番に担当し準備します。中1の生徒がリーダーの時は、上の学年の生徒もそのリーダーに従って働きました。学校でも寮でも、その組織力は、今考えても立派なものでした。
学園は、とりわけ音楽と美術、体操を重視していて、いずれもその道の一流の人が指導してくださいました。私が在学中、コーラスは、桐朋学園創始者で音楽家の斉藤秀雄先生のお弟子の指揮者久山恵子さんの指導を受けました。学園の大きな行事であるクリスマスコンサートの時には、斉藤先生自らタクトを振っていました。
今でも当時の友人たちと会話すると、「斉藤先生の指揮だと出ない声も出るから不思議だった」と話題にあがります。先生はスポーツカーでさっそうと学園に現れ、とても怖かった印象がありますが、指揮によって音楽が変わることを経験させてくれました。私は合唱部で、この12月に90歳で亡くなられた声楽家の坂本博士先生の指導を受けました。
美術は、原村出身で武蔵野美術大教授だった彫刻家の清水多嘉示(たかし)先生や東京芸術大教授だった日本画家の吉岡堅二先生に教わりました。清水先生はとても優しいおじさんというタイプで、同郷でもあったことからとても親しみを覚えました。ある時、私をモデルに、友達が描いたデッサンを清水先生が熱心に手直しをしてくれました。
この時は、私も友達も有名な先生とは知らずにいましたが、とてもすてきな仕上がりでした。今でも、その作品を見たい気持ちにかられます。あの時、「私にください」と勇気を出して友達にお願いすればよかったと悔やまれるくらいです。
毎年秋には、大芝生で体操会がありました。学園は創立時からずっとデンマーク体操を取り入れていました。それは、名前の通りデンマーク発祥の体操で、力強さと柔軟性、巧緻性、リズムを大事に、若者のバランスの取れた心身の発達を促すことを目的としていました。体操会では各学年が年齢に応じたデンマーク体操を伸び伸びと披露していたのを思い出します。
今になってみれば、学園は当時の日本の最先端を行く教育機関であったのだと思います。その当時、なかなか交わることのできない人たちと出会える学校に行かせてくれたいち子母にとても感謝しています。
聞き書き・中村英美
2023年1月14日号掲載
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