top of page

09 コンテストへの挑戦

  • 3月15日
  • 読了時間: 3分

受賞契機にメディアへ 新たな道の広がり次々と

第8回全日本ファッション大賞コンクール フォーマル部門金賞(1984年)
第8回全日本ファッション大賞コンクール フォーマル部門金賞(1984年)

 米国遊学後の1983(昭和58)年秋、岡学園デザイナー科の教師として再スタートを切った私は、自らがさまざまなコンテストにトライして入賞を重ねる一方で、その経験を生かし学生たちも全国コンテストに挑戦できる環境を整えていきました。


 学生たちは、84年に全国ファッションデザインコンテストに初応募し、翌85年には同コンテストでジュニア賞を、86年には全国2位にあたる東京都知事賞を受賞しました。ほかにも、全国規模のコンテストで着実に結果を残し始めていきました。時には同じコンテストで私も学生も最終審査に残り、ライバルとなってステージに立ったこともありました。学生たちの成長や活躍を喜びと思う一方で、学生には負けられないと思う気持ちが、常に私の良い意味でのプレッシャーともなり、8年間コンテストで上位入賞を取り続けるエネルギーともなりました。

第11回同コンクール 日本商工会議所会頭賞(1987年)
第11回同コンクール 日本商工会議所会頭賞(1987年)

 私は岡学園の副校長も任されました。学園は86(同61)年に創立40周年を迎え、長野における服飾教育の道を切り開き、積み重ねてきたことに対し、母も専修学校教育振興会・全国服飾学校協会から服飾教育功労賞を頂くなど、苦労はあっても順調に歩んでこられました。一方で日本経済の成長とともにアパレル業界はバブルに向かって一気に売り上げを伸ばしていった時代…。お金さえ出せば憧れの洋服はいくらでも手に入り、洋服は「作るものから買うことが当たり前」の時代に入っていました。


 まだ私が幼い頃には、長野にも洋裁を教える学校が何十もあり、黙っていても生徒が集まる時代があったのですが、生徒数減少から徐々に閉校する学校も出てくるなど時代は一変していきました。


 私が「副校長」を任された頃、岡学園には「広報」の部署はありませんでしたが、自らが活躍することで「宣伝塔」となって学校の価値を伝えていく役割を果たそうと努めました。


 コンテストへの挑戦と受賞の継続は、自分の向上のためではあったのですが、同時に、賞を取るとありがたいことに多くのメディアが取り上げてくださり、取材のほか、テレビ、ラジオに出演し、トレンドカラーを解説したり、時にはイメージアップについての講演を依頼されるなど、新たな道の広がりが次々と生まれました。機会を頂くそのたびに学校の名前や学生たちの活躍をより多くの人たちに知っていただけることがうれしかったことを覚えています。


 そのような中、デザインの授業で学生たちにトレンドカラーやスタイリングの話をしていると、これだけ多くのファッション分野でイメージを決定づける役割を担う「色彩」について、もっと深く知りたいと考えるようになりました。元々小さい頃から自然の中で育ってきた私にとって、色は「元気の源」、大好きな存在でした。米国ではカラーコーディネーターが活躍するなど、時代はビジュアル重視にシフトしていきます。そこでカラーマーケティング、色彩心理など色彩の持つ影響力や効果を徹底的に調べて、学生たちにも伝えようと思うようになったのです。

(聞き書き・中村英美)


2025年3月15日号掲載

 © weekly-nagano  All rights reserved.

bottom of page