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08 4カ月間の米国遊学

「多様な世界」大切な転機に デザイン通じて自信得る

ホストファミリーのオールズさん一家と本当の家族のように過ごしたロサンゼルスで(1983年)
ホストファミリーのオールズさん一家と本当の家族のように過ごしたロサンゼルスで(1983年)

 「もっと広い世界を見たい」と考えた私は、1983(昭和58)年春、留学を勧めるパンフレットでホームステイ先を見つけて、一人ロサンゼルスへ向かいました。


 迎えてくださったホストファミリーは、2人の小さなお子さんのいるオールズさん一家です。ここでベビーシッターをしながら英語を学び、日本とは違うオープンでカジュアルなロサンゼルスの生活を本当の家族のように一緒に送りました。友達もでき、週末にはサンフランシスコやハリウッドに行き、スケールの大きさを感じました。ニューヨークのホストファミリーを紹介されて2週間、ニューヨークの美術館や博物館を思う存分歩き回ったことも良き思い出です。


 そんなある時、オールズ夫人に「あなたの得意なことは何ですか」と聞かれ、私が「ファッションが好きで洋服作りが得意」と答えると、スカートの裾上げなど何点かの洋服のお直しを頼まれました。仕上げてしばらくすると「近所の奥さまがスカートを作ってほしいとおっしゃっているのだけれど」と言われました。しかし、あいにく周辺に生地店がありません。それならとインテリアショップでレースのカーテン生地を購入し、そのレースにリボン刺しゅうを施したかわいいギャザースカートを仕立てて、差し上げました。


 するとその人はとても喜び、「なんてすてきなスカートなんでしょう。あなた才能(タレント)があるわね」と褒めてくれたのです。このとき私は材料費もさほどかけられず作ったスカートに対して「タレントがある」と喜んでくれた姿がとてもうれしかったことを覚えています。


 国や場所が異なれば評価のされ方は異なる。だからこそ「やってみないと分からない」。そんな多様な世界があることに気づけたのです。日本、長野とは違う空気の中で過ごした4カ月は私の中で大切な転機ともなりました。人と比較して自分の不足を気にするよりも、自分が好きなこと、得意なことを育てていくことで、自分なりにベースとなるものをつかむこともでき、デザインの力を通じて自信を得る機会になりました。


 アメリカ遊学を経て長野に戻った私は、長野ドレメの校長である母にデザイナー科(3年生)を受け持ちたいと話しました。ドレメ卒業後、帰郷してすぐに専任教師になった時とは違い、自分なりの自信と前向きな気持ちで母の後を継いでいくことも意識できました。この時、母は62歳、私は25歳でした。


 デザイナー科の教師として改めてスタートを切った私は、デザインの発想の仕方やファッション画の描き方などデザイナー職を目指すことを中心とした指導をする一方で、再びデザイナーの登竜門と位置付けられるファッションデザインコンテストへの挑戦を始めました。


 それまでは全国コンテストの存在は知っていても取り組むことのなかった学内で、学生たちを入賞させたいなら、指導する私自らがコンテストで上位入賞していなければと思ったのです。


 毎日授業が終わってからデザイン画を描いて、さまざまなコンテストに応募しました。いつもの徹底ぶりがここでも発揮され、花や虫、椅子や車、あげくは信号機まで、何もかも全てが洋服のデザインに見えてくるほど熱中していました。


 84年には、1万点余もの応募がある「全日本ファッション大賞コンクール・フォーマル部門」で金賞、85年にはNDK日本デザインコンテスト、86年にはファーデザインコンテストでカナダミンク賞、第10回全日本ファッションコンクール・化学繊維協会賞と、次々に賞を取るようになりました。経験とは大きなものです。このことから、次は学生たちと共に全国コンテストで入賞していくことを目指したいと考えるようになりました。

(聞き書き・中村英美)


2025年3月8日号掲載

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