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08 1年間の浪人生活

  • 10月18日
  • 読了時間: 3分

音大受験勉強に明け暮れ 厳しくとも楽しい時間も

武蔵野音大生となった私(前列左)と千葉先生(後列左端)
武蔵野音大生となった私(前列左)と千葉先生(後列左端)

 現役時に東京芸術大学と桐朋学園大学の受験に不合格となった私は、東京の音大受験生向けの予備校に入りました。しかし、当初は友達のアパートに居候していて帰宅後の練習場所がなかったため、3カ月ほどで長野の実家に戻ることにしました。兄が知り合いの職人さんに頼んで、実家の私の部屋に吸音材を取り付けて防音室にしてくれたので、楽器の音を気にせず練習に打ち込むことができました。また、ピアノと歌唱、ソルフェージュをまとめて教えてくれる先生のレッスンを受け始めました。


 千葉国夫先生の東京でのレッスンにも月2回、夜行列車で通いました。先生は、私が音大受験に失敗したことに対して、特に何も言いませんでした。


 先生の指導では、基本である正しいリズムと音程はもちろんですが、「いい音とはどういう音かよく考えろ」とよく言われました。口下手で口数の少ない先生でした。それだけに、まれに「それでいい」と褒められた時の喜びは余計に大きく感じました。指導を受けるうちに次第に何が悪くてどうすればいいのかを自分で考えるようになりました。先生もそれを意図していたのだと、今になって思います。


 先生はレッスン料の話さえ一切しませんでした。そのため、レッスン生それぞれが勝手に決めた額を袋に入れて、先生の自宅にある箱に入れて帰っていました。


 地方の商業高校出身の私は音大受験に関する情報を得るノウハウをほとんど知りませんでした。レッスンが終わった帰り道、仲良くなった仲間と歩きながら世間話をする中で音大に関する情報やレッスン料のことなどを聞きました。初めて聞くことも多く、いろいろな情報を得ることができました。


 先生は音大出身ではなく、富山陸軍学校の軍楽隊からNHK交響楽団 (N響)の前身「新交響楽団」を経て、N響の首席クラリネット奏者にまでなったすごい人で、どことなく味があって信頼できる人でした。そんな人間性にひかれて多くのレッスン生が集まったのかもしれません。その中から、著名なクラリネット奏者が数多く生まれました。


 年が明けた1月、志望校を東京芸大と武蔵野音楽大学の2校に絞りました。前年に不合格だった東京芸大には再度挑戦したいとの思いがありました。武蔵野音大は、千葉先生が講師(後に教授)として指導していたことから選びました。


 東京芸大の入試では1次、2次試験が実技で、クラリネットは「エチュード」、ピアノは「ソナチネ」と「バッハ」を1曲ずつ演奏しました。2次試験はウェーバーの「コンチェルティーノ」の演奏と「ソルフェージュ」でした。1次、2次は合格したものの、3次試験の学科(英語・国語・楽典)で不合格でした。


 武蔵野音大は実技(クラリネットとピアノ)と「ソルフェージュ」、学科(英語・国語・楽典)の試験を数日かけて順次行い、合格しました。千葉先生に武蔵野音大に合格したことを伝えると、いつものように「そうか」と言われただけでした。


 音大受験の勉強に明け暮れた1年間を今振り返ると、千葉先生のレッスンなどに厳しさを感じたことはあっても苦しいとは思いませんでした。千葉先生の自宅にレッスンに来ていたプロの演奏を目の前で聴き、テクニックのすごさに驚くとともに楽しくもありました。そうした時間があったからこそ、厳しい浪人生活を耐えしのぐことができました。

(聞き書き・斉藤茂明)


2025年10月18日号掲載

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