08 郷土誌を創刊
- 4月25日
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地域の歴史もっと関心を 表紙や挿絵など版画彫る

東京と鎌倉には通算12年いました。1975(昭和50)年1月、母親が雪道で滑って転んで頭を打ったと知らせが入り、急きょ更埴市(現千曲市)に戻ってきました。その頃、兄夫婦が離婚して、小学生の長女と保育園児の次女を兄と母で面倒を見ていました。70歳を過ぎて、炊事や洗濯などの家事で母も精神的に参っていたと思います。僕はろくな看病もできず、母は翌年亡くなりました。
その頃、高校の同級生で、大学卒業後東京で就職した柳沢純さん(屋代西沢書店社長)も更埴市に戻ってきて、一緒にミニコミ誌「郷土の本・さらしなはにしな」を創刊しました。一般の市民にも自分たちの地域の歴史に関心を持ってもらおうと始めたのです。
僕たちが調べて書くだけではいけないと、3人のレギュラー執筆者をお願いしました。当時上山田温泉に住んでいた森嶋稔さん(考古学研究者)、矢羽勝幸さん(一茶研究家)、福沢武一さん(方言研究家)です。中学生でも分かるような内容にし、文字だけだと読んでもらえないと、僕が表紙や途中の挿絵などの版画を彫りました。
編集人の僕はまだ本名の「柳沢三雄」でした。「さらしなはにしな」が書店に並んでしばらくして信濃毎日新聞社から電話があり、いろいろ聞かれました。その時のやり取りで「あなたの職業は著述業でいいですか」と聞かれ、「版画なら売ったことがある」と答えたら、記事には版画家という肩書で載りました。同級生たちからは「お前、いつから版画家になったんだ」などとからかわれました。
僕の郷土史との関わりは屋代中学校の経験が原点です。3年生の時、学校近くの遺跡の発掘があり、中学に「郷土研究班」ができました。やることは発掘場所の「土運び」でした。僕が班長になり、夏休み中交代で発掘作業を手伝いました。この発掘の責任者が近藤音三郎さんで、旧屋代町の助役や教育長を歴任した人でした。学校の先生にとても人気があり、だれもが尊敬と親しみを込めて「音さん」と呼んでいました。
その音さんが、僕に「君が郷土研究班の班長か。土運びなどしなくていいから、遺跡のあちこちを見て回って指導してくれ」と言うのです。僕はそのようなことはできないし、好きではなかったので、それからはほとんど発掘現場には行かなくなりました。
夏休みが終わり、遺跡発掘の成果発表がありました。中学生で参加したのは僕だけでした。成果発表を聞いても何のことかほとんど理解できませんでした。それでも、成果発表に参加した僕は全校生徒の前で報告することになりました。「これが土師器(はじき)で、こっちが須恵器(すえき)です」などと分かったような顔をして話したら、先生に怒られました。「長々話すな」と。郷土史に関わろうとはその頃は思っていませんでした。
話がそれましたが、「さらしなはにしな」は更級郡、埴科郡の両郡誌を勉強する有志の会のメンバーが編集していました。西沢書店が郷土史に興味のありそうな人に宣伝し、販売していました。しかし、1991年、32号をもって廃刊になりました。
その頃から、僕が住んでいた「千本松の家」を「杏の里板画館」にしていこうという話が持ち上がりました。そっちの方が忙しくなり、「さらしなはにしな」の版画を彫っている時間的余裕がなくなりました。
ただ、この時のメンバーはその後の「更埴郷土を知る会」の中心メンバーになり、森将軍塚古墳の保存運動につながっていくのです。
(聞き書き・吉村英樹)
2026年4月25日号掲載



