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07 長野ドレメの教師に

自分にもっと力付けたい 東京の学校で新たな学び

スクーターファッションのデザイン画を描いて副賞でいただいたバイク「ジョイ」に乗って
スクーターファッションのデザイン画を描いて副賞でいただいたバイク「ジョイ」に乗って

 1980(昭和55)年春、ドレメ(杉野学園ドレスメーカー女学院)を卒業した私は、長野に戻り、母が校長を務めている長野ドレメ(現岡学園)の教師としてスタートを切りました。もちろん最初はベテランの先生とともに服飾造形を指導していったのですが、教え子となる学生たちは私とほぼ同年齢。この春まで学生として学んでいた私が、今度は一転して教える立場になったのですから、これはかなりのプレッシャーでした。


 とはいえ校長である母の指導はとても厳しく、教師として教壇に立つ以上、学生の質問に「分からないということがあってはいけない」と言われて、もし分からないことがあっても、さっと研究室に戻ってすぐに確認してから、学生に答えるようにしていました。学生にとっては、ベテランであろうと新人であろうと教師に変わりはありません。そこでの言い訳や甘えは学びにきている学生に対して失礼になるのです。


 当時、私が受け持った学生は40人ぐらい。黒板に大きくブラウスの製図を書き、パターンの説明をしたり、見本を縫ったり…と毎日があっという間でした。時には主任の先生と共に学生が制作途中の仮縫いをチェックすることがあったのですが、学生たちは皆正直。やはりベテランの先生に仮縫いを見てほしいと、私の前にはなかなか並んではくれないこともありました。 


 自分が学んできたことを母の学校で生かしたいと考えて帰ってきましたが、学生の立場と指導する教師の立場は、当たり前ですが全く違いました。ベテランの先生が何人もいる中でまだまだ力不足。一方で「後継ぎの娘さん」と周りから期待もされ、そのギャップにつらくなったこともありました。


 教師としておよそ1年を過ぎた頃、学生の規範になるためには自分が経験をしなければと思い、コンテストに自ら応募し、入賞することで、自分なりに学生に必要とされるよう努めました。また、80年代、すでに「アパレル(既製服)」が台頭し、イッセイミヤケやコム・デ・ギャルソンなどDCブランドの憧れの洋服がいくらでも手に入る時代へ。私は、服飾造形だけを教えるのではなく、コーディネート法や店頭でのディスプレーなどビジネスに生かせる技術を学んで、学生たちに教えたいと思うようになりました。


 教師生活2年が終わろうとしていた頃、母である校長に「もう一度東京に行って勉強したい」と話しました。ここに戻ってくるか答えはありませんでしたが、とにかく自分にもっと力を付けたかったのです。そんな私を母は止めることはしませんでした。


 それから私は、少しずつためてきたお金を元手に再び上京。その頃、服飾ビジネスの現場を学べると定評があったヘレンヒギンス・キャリアスクール(東京)で、コーディネーターとディスプレーの二つの科目を履修しました。


 印象に残っているのは、指導にあたってくださった方が教師ではなく、業界で活躍する現役スタイリストや、コーディネーターだったことです。渋谷の店頭やウインドーを飾っている人から直接、技術や現場で起きる「今」をさまざまなエピソードを交え教えていただいたことは、私の視野を大きく広げてくれました。


 ここで学んだことは、後に長野に戻った時、ファッションビルのウインドーディスプレーや、テレビ局のアナウンサーのスタイリストを任された時に生かされ、私の中で「ファッションの現場」と「教育指導」の両輪を持つ教師としての一歩となりました。


 ドレメでは「しっかりと作る」ということを、一方、ヘレン・ヒギンスでは「ビジネスへの生かし方」を教わりました。春から学んできた授業は冬には修了し、私は「もっと広い世界を見たい。誰にも頼ることのない海外へ行ってみよう」と考え、自費でロサンゼルスへ行くことを決めました。

(聞き書き・中村英美)


2025年3月1日号掲載

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