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05 予備校2年目

後の夫が新クラスの担任 指導のおかげで芸大合格

浪人時代に描いた私の自画像

 東京芸大合格の目標がかなわず、2浪が決まった1974(昭和49)年3月、住んでいたアパートが全焼する災難に遭った私。一緒に住んでいた西高時代からの友人は一人暮らしをすると決めてすでに引っ越していたので、残った私は、2人で払ってきた家賃を一人で払うにはアルバイトをしなければならないな、と考えていましたが、火事に遭ったために、一人用のアパートを探し、4畳半一間の小さな部屋に引っ越しました。

 2浪目は、1浪目の先生のクラスではありませんでした。その先生に憧れていたので同じクラスに入りたかったのですが、先生同士の話し合いの結果、違うクラスになりました。私のクラスの担任になったのが、後に私の夫となる小松良和です。私より6歳上で、芸大の大学院生でした。小松は伊那市の出身で、父親が病弱で働けず母親が家計を支えていたので、自立心が強く、大学生の時から予備校の講師をし、自活していたそうです。

 1浪目の担任の先生は物静かでいかにも芸術家の雰囲気を漂わせていましたが、小松は口調が軽くて、最初は「何、この先生…」という感じで信頼する気持ちになれませんでした。

 でも、授業を受けているうちに、小松のすごさを感じるようになりました。小松がほかの生徒の指導をして絵に手を加えると、つまらなかった絵が見違えるような絵になっていくのです。目の前で絵が劇的な変化を遂げていく様子を見て驚きつつ、自分の絵をどのように描いたらそうなるのか私には分かりませんでした。

 浪人生活1年目は楽しかったのですが、2年目ともなるといくら描いても進歩が感じられず、自分の才能に自信がなくなりかけていました。芸大へのこだわりは消え、どこでもいいからとにかく美大に入りたいという気持ちになっていました。「私立の美大にはそれぞれの良さがある。芸大にこだわるのはナンセンスだよ。本当に画家を目指すなら、私立も受験するべきだ」という小松の助言も大きかったです。結局、東京芸術大学、東京造形大学、武蔵野美術大学の3校に願書を出しました。

 最初の試験は東京造形大学でした。試験会場で描く実技試験と、あらかじめ描いた30号の絵を持って臨む面接試験がありました。自宅のアパートで、小さな食器棚の上に花瓶と花がある静物画を一生懸命描きましたが、相変わらず平凡な絵でした。予備校に持って行って小松に見てもらうと、ほんの数分で花瓶の輪郭とバックの形を整理して強調するように筆を入れてくれました。すると、平凡だった絵が見る見る冴(さ)えた絵に変化していったのです。

 その時の小松の直し方を見て、2年間一生懸命やってもつかめなかった感覚、平凡な絵が人をひきつける絵になるポイントを体感して開眼した思いでした。そのおかげで東京造形大学に合格し、その自信を持ってポジティブな気持ちで芸大受験に挑み、芸大にも合格できました。2000人余りの受験生から、55人の合格者の中に入れたのです。芸大の入り口に張り出された合格者リストの中に自分の受験番号を発見した時は、夢かと思いました。芸大を目指して頑張ってきた友人たちは不合格になり、共に喜べず複雑な気持ちもありましたが、何よりもずっと応援してくれた両親が喜んでくれたことがうれしかったです。

 小松の指導がすごく良かったので、小松クラスからは私も含めて5、6人が芸大に入学できました。小松クラスになった時はがっかりしましたが、あのまま前の先生のクラスにいたら、私が抱いていた絵の謎も解けず、大学に入学できず、画家になっていなかったかもしれません。大きな運命の分岐点でした。

 聞き書き・松井明子


20023年7月1日号掲載

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