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04 長野西高時代

つらかった経験を糧に 自分の「居場所」見つける

ファッション雑誌のデザイン画コンテストに入賞し、副賞で頂いたスカートで写真に収まる高3の私
ファッション雑誌のデザイン画コンテストに入賞し、副賞で頂いたスカートで写真に収まる高3の私

 長野西高校に進学した私は、小中学校と続けてきた陸上部ではなく剣道部に入ります。小学校でも、中学校でも短距離の記録は一番でしたが、市・県の大会に行くと、もっと速い選手がいることを知り、ほかのことにもトライしたいと考えるようになりました。


 当時一世を風靡(ふうび)していたのがブルース・リー主演のカンフー映画「燃えよドラゴン」。彼に憧れ何度も映画館に足を運んでいた私は、「ヌンチャク」を習ってみたくなったのですが、さすがにそれを習う部活はありません。そこで、一番近いのは「剣道部」ではないかと考えたのです。剣道の練習に励む一方で、文化祭では洋服を自宅からたくさん持ち込み、クラスでファッションショーをするなど高校生活を楽しんでいました。


 ところが、2年生の半ばごろだったでしょうか、運動をして筋肉質だった私はある日、「もっとオシャレを楽しむためにもスリムになりたい」と思い、ダイエットを始めました。その頃の私は、身長160センチ、51キロくらい。今思えばいわゆる「健康体型」だったのですが、何事も徹底的にやる性格が災いし、極端に食事量を減らしてしまいました。大好きなケーキやご飯も「食べたらこれまでの努力が無駄になる」と思い我慢。その結果、半年後には体重が30キロを切るまでになってしまいました。


 体力も落ちて痩せてしまった私を心配した母が病院へ連れて行ってくれました。お医者さんの診断は自律神経失調症による「栄養失調」でした。「このまま本人が食べないなら医者にはどうにもできないし、覚悟も必要かと…」。お医者さんのそんな言葉に涙を流す母の姿を見て、ようやく「痩せ過ぎてしまった」ことを自覚しました。単純に「もう少しスリムになりたい」という軽い気持ちから始まったダイエットが行き過ぎてしまった結果、日常生活にまで影響を及ぼすことになってしまいました。


 3年生になってからも、体はだるく体力もないため、学校は休みがちになり、担任の先生と出席日数を相談しながら通うような日々。授業も遅れがちになり、それでも頑張って登校すると、顔を見たクラスメイトが気遣って「無理しないで早く帰ったほうがいいよ」と声をかけてくれました。私にはその言葉がすごくつらかったことを覚えています。優しさで声をかけてくれたのは分かっているのですが、逆に「待ってたよ」といつものように迎えてほしかった。その時の心の声は忘れられません。


 しかし、このつらかった経験は今、教育に携わる私にとってとても大切な宝物となっています。子どもたち一人一人誰にとっても大切な「居場所」。当時の私は、家庭科の先生のところに行って裁縫やデザイン画を教わり、ファッション雑誌のコンテストに応募し、賞を頂いたりすることで、自分にとっての「居場所」を見つけられました。


 3年生も後半になるとクラスの話題の中心は大学への進学のことでしたが、私は、これまでどんな時も自分を支えてくれた「ファッション」の道に進みたいと考え、デザイナーになりたいという夢に向かう決意をしました。この長野を離れて自分の力でなんとか立ち直り、切り開きたいという気持ちもあり、母も叔母も姉も通った杉野学園ドレスメーカー女学院(東京都)を目指しました。

(聞き書き・中村英美)


2025年2月8日号掲載

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