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04 日本舞踊を習う

「祇園祭」では屋台で踊る 各種行事で花束渡す役も

千歳町の屋台上で立方(たちかた)を務める私。その左は五條先生

 私が3歳になる少し前、1945(昭和20)年の終戦前の数カ月、家族の中で私だけが飯山の戸狩に疎開しました。藤屋には戸狩出身の従業員がたくさんいたので、つてがあったのかもしれません。ほとんど記憶にないのですが、夏の初めに千曲川のほとりでホタルを追いかけたことだけはなぜか鮮明に覚えています。

 戦時中から戦後しばらく、物資が不足している中で、藤屋の土蔵には大量の昆布と寒天がありました。お客さまのお膳には、寒天を溶かして固め、それを刺し身のように切り、上手に盛り付けた皿が載っていました。

 私は終戦からほどなくして、現在のホテル国際21近くにあった旭幼稚園に入りました。日本人牧師が園長先生で、忙しい両親に代わって番頭さんや女中さんに連れられて通いました。

 ちょうどその頃のことです。藤屋の近所に、日本舞踊の五大流派の一つ花柳流を元とする「五條流」2代宗家五條珠実先生(1912〜2001年)が東京から疎開していました。藤屋向かいの「喜多の園」さんが、善光寺仁王門近くにあった別宅を住居兼お稽古場として提供し、お嬢さんに五條流の踊りを習わせていました。

 喜多の園さんの誘いもあって、園児だった私も稽古に通うようになりました。私のいとこが嫁いだ千歳町の新聞販売店もまた先生のお稽古場になっていました。弥栄神社の御祭礼の時には、善光寺周辺の各町が伝統の屋台を引いて中心市街地を巡る祇園祭の、千歳町の屋台で踊らせていただきました。


ゾウを連れて来た移動動物園の職員に花束を手渡す私(中央手前)

 次の話も踊りの先生の縁つながりです。49(同24)年、東京の上野動物園に、「はな子」と「インディラ」という2頭のアジアゾウがタイとインドから贈られました。動物園は、平和の象徴であるゾウを日本中の子どもたちに見せたいと翌50年から移動動物園を始め、全国各地を巡回しました。長野にも列車で「インディラ」がやって来ました。その時に行われたセレモニーで、私を含め教室の生徒何人かで歓迎の花束を贈る機会をいただきました。先生が関係者とお知り合いで、協力を頼まれたのだと思います。私がゾウを見たのは生まれて初めてで、子どもだったこともあり、その大きさにとても驚きました。

 そのほかにも、今の城山公園内にあった長野市営城山野球場で行われた巨人対南海戦で当時の巨人軍監督の水原茂さんや、公演のため長野を訪れた藤原歌劇団創立者で声楽家の藤原義江さんに花束を渡しました。

 私には年子の妹れい子がいましたが、2歳前に亡くなってしまいました。父文三が若くして亡くなった後、叔父で義父となった常夫と母ツキの間には、4歳違いの康子(15歳で死去)、5歳違いの弘、7歳違いの俊の3人が生まれます。

 小学校は信州大学長野師範学校付属長野小学校に入学しました。当時入学するためには抽選が行われ、母ツキが抽選に臨んで引き当ててくれました。私が入学したことで、ほか3人のきょうだいも付属小中学校へ進みました。

 西長野にあった小学校までは歩いて15分ほど。1年生に上がりたての頃は砂利道を下駄で通学していたような記憶があります。当時の大門町は人通りも車の通りも少ない代わりに自転車の往来が多く、弟は自転車とぶつかったこともありました。冬は雪が積もった大門の坂を竹スキーで遊んだ記憶もよみがえってきます。

 聞き書き・中村英美


2022年12月3日号掲載

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