top of page

03 将来の夢

デザイナーになりたい… オシャレ大好き少女時代

手描きのひまわりのワンピースで写真に収まる姉と私(右、10歳ころ)
手描きのひまわりのワンピースで写真に収まる姉と私(右、10歳ころ)

 次女で末っ子の私はずっと「お父さんっ子」と言われて育ってきました。県の職員だった父は優しくて子煩悩。帰宅すると、3人の子どもたちといっしょによく遊んでくれました。忙しい母に代わって、私たちに寂しい思いをさせないようにしてくれていたのかもしれません。


 私が小学4年生に進級した春のことです。体調を崩していたにもかかわらず病院にも行かずに仕事を続けていた父は、ある日起きられなくなり、入院を余儀なくされました。家族はもちろん、重病とは思いもよりません。しかし、数日後、父は帰らぬ人となってしまったのです。まだ49歳でした。日なたぼっこをしながら父の白髪を抜いてお駄賃をもらったり、時には父ならではの豪快な手料理をみんなでおいしく食べたり、今思えば、末っ子の私は本当に父に甘えさせてもらいました。この時、大切な人が急にいなくなってしまう怖さを痛いほど感じ、とても悲しかったことをよく覚えています。


 私は、父が亡くなったこの年に「将来の夢」について作文を書いていました。そこには、「大きくなったらデザイナーになりたい。そして銀座のど真ん中にビルを建て、1、2階はショップ、3、4階には家族で住んでいて、世界の流行はここから発信されると言われたい…」と。今では、子どもならではの何とも大胆な夢だと笑えますが、ただ父を亡くした悲しみの反面、この作文はいずれ私の背中を押してくれることになっていきます。


 小学校の間は、相変わらず母や助手の先生が私の洋服を作ってくれました。「かわいい」「よく似合ってる」と言ってもらえるのが単純にうれしく、自分でゼロから作ることはできませんでしたが、「この服のここにバラのアップリケを付けたらもっとすてきになりそう」などと考え、母や助手の先生を引き留めて、作り方を教えてもらうようになっていきます。「オシャレ」に加えて「オリジナルである」ということへ関心が高くなっていったのでしょう。


 小学生時代を山王小で送った私は西部中学校に進みます。中学生の時の忘れられない思い出は、京都への修学旅行です。私が通った小、中、高校には制服はなく、ずっと私服でした。当時の中学校の修学旅行といえば、ほとんどの子がリュックサックを背負っていきました。修学旅行当日、私のリュックは最初から洋服でパンパンでした。なぜなら清水寺に行ったらこの服、新京極へ行ったらこのスタイリングと、1日に2、3回着替える想定をしていったからです。当然のことながら先生には、「遊びに来ているわけではない」と一喝されました。オシャレが大好きだったゆえの苦い経験です。


 中学校でも足の速いのは健在で、時に「西部中のカモシカ」と呼ばれるくらい。3年間は陸上部で短距離の選手として活動しました。放課後はグラウンドでずっと走る毎日で、日焼けして真っ黒でした。3年生になると整美委員長を任されて、徹底して学校をきれいにしていくような活動にも真面目に取り組みました。


 私は母から「勉強をしなさい」と言われたことがありません。スポーツや好きなことを伸び伸びとする子でしたので、高校受験が近づいてきた頃に担任の先生に、「どこを受けたらいいんでしょう」と相談しました。その結果、以前から憧れていた「梶の葉」、そして姉も通っていた長野西高校を受験して進学しました。

(聞き書き・中村英美)


2025年2月1日号掲載

 © weekly-nagano  All rights reserved.

bottom of page