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03 中高とも美術部

将来は美術関係の仕事を 西高では夜遅くまで描く

北条の自宅の前で。(左から)父、姉、小学生の私、母=昭和40年ごろ

 母の実家は商売をやっていて、いろいろな人が出入りしていました。長野美術専門学校(中御所)の前身である村田絵画研究所を開設した画家の村田武次先生もその一人です。絵がうまかった母は、村田先生から、現在の東京芸大を受験してみたらどうかと言われたことがあるそうです。

 私は古牧小の1年生からピアノ教室に通い始めました。最初は喜んで通っていましたが、地味で単調な練習の繰り返しが嫌になってしまいました。6年生になってピアノをやめた後、村田絵画研究所に通うようになりました。子ども向けの絵画教室と、美術大学受験の人たちを教える専門的なクラスが併設されていました。

 絵画教室で初めて油絵を描きました。「油絵だからといってものすごく難しいわけではないんだ。今まで描いていた絵とそんなに違いはないんだな」という印象でした。

 毎週日曜日に通い、その時間に1枚作品を仕上げるという感じでした。ピアノは地道に練習しないとうまくならないし、楽しいと思えるほど上達しないで終わってしまいましたが、絵を描くのはすごく楽しかった。村田先生は、こういうふうに描かなければいけないという指導を全くせず、描くといつも褒めてくれてうれしかった。「ちょっと違うよ」などと言われたら、どう描いたら良いのかきっと迷ってしまったと思います。

 当時の私は、写実的に描こうと、よく観察して描いていましたが、決して感性があふれるような絵ではありませんでした。大人の言うことをよく聞くような「いい子」だったので、それが絵にも表れていました。変に大人びていて器用だけれど、子どものおおらかさやみずみずしさは感じられない絵。よく画家になったものだと自分でも驚いてしまいます。

 桜ケ岡中学校では美術部に入りました。部員は私と友達の2人だけでした。絵の具を使って描くような活動がほとんどなかったので、中学に入ってからも村田先生のところに通いました。その頃には、よく分からないながらも「将来は美術関係の仕事をしたい」という思いを持っていました。でも、画家というより、華やかなファッションデザイナーやグラフィックデザイナーなどに憧れていました。

 中学の時は勉強も一生懸命やっていたので優等生でした。ところが、長野西高校に入学してから急激に成績が落ちていって、学年で最下位レベルまでいってしまいました。それまでは少し勉強をすればそこそこの点数が取れていたのに、英語も数学も全然分からない。早々に嫌になってしまい、「美大に行くのだから、そんなに成績が良くなくてもいいや」という感じになってしまいました。

 西高の美術部は、美大受験の方法が先輩から伝統的に引き継がれていて、美大を目指す生徒たちが放課後、美術室で夜遅くまで集中して描いていました。すごく絵のうまい先輩がいて「あんなふうになりたいな」とすごく憧れて、一生懸命描きました。顧問の先生も自由にやらせてくれて、仲間との時間がすごく充実していたので、村田絵画研究所からは足が遠のいてしまいました。

 絵には一生懸命でしたが、学業の方はいい加減になってしまい、3年生になると授業も休んだりして、先生たちの間で問題になっていたようです。今思うと、よく3年で卒業できたという感じです。実は美術の先生が「小山は美術に関してはすごく真面目にやっていて、決して不真面目な生徒ではない」とかばってくれたのだと、だいぶ後になってから人づてに聞きました。

 両親も、私が美術の大学に行きたいというのを一切反対することなく、ずっと応援してくれました。

 聞き書き・松井明子


2023年6月17日号掲載

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