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02 借家の八畳一間から

母久子が洋裁教室開く 今日の糧を得るために

新築の自宅前で父母、兄姉と撮った記念写真。手前右が私(4歳ころ)
新築の自宅前で父母、兄姉と撮った記念写真。手前右が私(4歳ころ)

 私は1958(昭和33)年に岡正義と久子の次女として岡田町に生まれました。7歳上に兄、4歳上に姉がいる3人きょうだいの末っ子です。


 岡家のルーツは、母方の祖父母の出身地である香川県高松市です。麻布獣医畜産学校(現麻布大学)を卒業して獣医だった祖父は祖母と結婚後、馬の獣医として北海道に渡り、それから長野県小海町へ移り住みました。その後、県の畜産課で働くことになり、長野市岡田町に家を借りて住むようになりました。


 5人姉妹の長女であった私の母久子は、北海道生まれ、小海町育ちです。野沢南高校からドレスメーカー女学院(東京都)を卒業して、山梨県甲府市のオートクチュールのお店のデザイナーとして就職しました。しかし、甲府で空襲に遭い、命からがら祖父母の元へ戻ってきます。終戦の翌1946年に今日の糧を得るため、八畳一間の洋裁教室を開き、そこから岡学園トータルデザインアカデミーの歩みが始まりました。


 父正義は、北相木村の出身で、早稲田大学を出て県職に就いていました。久子とは互いの父親同士が知り合いだったことが縁で、48年に結婚。井出家の次男だった父が岡家に養子に入ったのは母が長女だったことももちろんあったと思います。ただ父はそういったことにはこだわらないおおらかで優しい人でした。


 母は、私が生まれる前年の57年に現住所に土地を購入して校舎を新築しました。後に母はこの頃を振り返り、「淡いピンクの建物はファッションの学校にふさわしく、大変な人気を呼ぶ」と記しています。私が生まれた頃の学校には午前、午後、夜の部がありました。母は3人の子どもを抱えながら朝から夜まで学校で教え、その合間に自分と子どもたちの着る洋服を縫うといった、人生で最も多忙な日々を送っていたようです。


 この頃の岡家は、祖父母と私たち家族5人、それに母の妹2人、みんなで9人が暮らす大所帯でした。その中で成長した私は、幼くして兄のプロレス相手となり、おてんばで野山を駆け回って遊んでいるような子どもでした。祖父の影響か動物や虫が大好き。当時飼っていた雑種犬の「ポチ」とは大の仲良しで、縁の下で一緒に寝ていたり、小屋にもぐりこんで遊んだりするほどでした。


 校舎を新築後しばらくして、両親は学校の敷地内、校舎の隣に住居を新築。一家はそれまでの借家から新居で暮らすようになります。


 私は家から歩いてほんの数分の所にあった山王小学校に入学します。母に「ここ(長野ドレスメーカー女学院)に来てはだめよ。大事な仕事場だから」と言われることで、母が仕事で忙しいのは何となく理解していました。家で遊んでくれたのは父で、夏場は近くを流れる川にホタルを取りに行き、それを自宅の蚊帳の中に放って、川の字で寝ていた父母と私で「きれいだね」と言い合ったのをよく覚えています。


 家の周りには一年中、遊ぶのに事欠かない環境が広がっていました。まさに自然の中で育っていたせいもあるのでしょうか。足が速くなり、小学校で友達と手つなぎ鬼をすると、みんなに「まーちゃんは最後までつかまらない」と言われたくらい。毎年リレーの選手で、高学年になるとアンカーで出場して、ごぼう抜きで優勝したこともありました。


 その一方で、幼い頃からお人形さんの絵を描いて家族に「はいっ」と見せると、母や助手の先生が、その絵を基にオリジナルの洋服を作ってくれました。それを着ると、小さいながらに自分だけの注文服のような〝特別感〟がありました。中学生になるくらいまでは、このようなことも日常としていて、幼いながらも「オシャレ」に対するこだわりも強くなっていったように思います。

(聞き書き・中村英美)


2025年1月25日号掲載

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