01 14代当主の長女

善光寺宿の本陣を務めた 藤屋と80年間歩みを共に

藤井奎子さん=御本陳藤屋の玄関ホールで

 善光寺門前町として発展した大門町界隈は、江戸時代には北国街道の善光寺宿として栄えていました。

 1648(慶安元)年創業の藤屋は、加賀前田藩など参勤交代の大名らを迎える「本陣」を務めてきました。 明治以降も皇族をはじめ、伊藤博文や乃木希典、福沢諭吉、渋沢栄一、高村光雲など政財界の要人や文化人などにお泊まりいただき、その時の木札が今も残っています。

 1923(大正12)年、大門町と長野駅を結ぶ全長約2キロの中央通りの拡幅工事が行われました。この時私の祖父で12代当主の幸蔵が3階建ての、大正ロマンティシズムが薫る洋風建築の旅館に建て替えました。それが現在に続く建物で、97(平成9)年には国の有形文化財に登録され、来年築100年になります。

 98年の長野冬季五輪を機に、新幹線や高速道路が開通して長野市は首都圏からの日帰り圏になりました。さらにホテルが次々と新規開業して、ホテル間の競争は激化していきました。

 こうした中、私の長男で、現17代藤井家当主の大史郎が、それまでの旅館業から業種転換を決め、2006年よりレストランとウェディング事業へとかじを切り、今日に至っています。

 私は1942(昭和17)年、14代当主文三の長女として生まれ、80年にわたって藤屋と歩みを共にしてきました。

 3年ほど前になりますが、指揮者のコバケンこと小林研一郎ご夫妻とディナーをご一緒する機会がありました。櫻子夫人とはお茶をご一緒する機会も何度かありましたが、マエストロの研一郎さんとは初めてで少々緊張していました。名刺を差し上げてごあいさつをすると、マエストロは私の「奎」という字にとても関心を示しました。

 私はとてもうれしくなり、「奎」は、古代中国の天文学でアンドロメダ座付近の星々を表す「奎宿」に由来すること、家の屋上に天体望遠鏡を置いていたほど天文が好きだった父が名前を付けてくれたこと、父は私が2歳になる前にはやり病の赤痢で亡くなったことなどを夢中で話しました。優しいまなざしで、熱心に聞いてくださったマエストロは、「あなたのお話は十分に物語になるから、ぜひ自分史をお書きになったら」と、熱心に勧めてくださいました。

 かねがねロータリークラブや地域の集まりなどに呼ばれて、私が旅館の女将として関わってきた著名な人たちについて話をすると、「ぜひ本にして、残したらどうか」と勧めていただいたことも何度かありました。

 2016年に亡くなった作家の永六輔さんは50年来にわたって藤屋をひいきにしてくださいました。たくさんある永さんとの思い出の中で、とりわけうれしかったのは、若女将として働き始めた頃のことです。「女性がいろいろな職業について活躍し始めたけれど、僕が今ね、一番大変な仕事だと思うのは旅館の女将さんだよ」と言葉を掛けて励ましてくれました。今でも折に付け思い出します。

 永さんのエピソードはもちろんこれだけではありませんし、お泊まりになった有名な方々とお話しする中で感動したことも数知れません。しかし、今の若い人に永さんと言っても知らない人もいます。そういう話をちゃんと残していきたいという気持ちが強くなりました。

 私の4人の大好きな孫たちに、私の生まれた当時のことや、どのような人と関わって生きてきたのかを伝えたいと思っています。

聞き書き・中村英美


2022年11月12日号掲載


 

藤井奎子さんの歩み

1942(昭和17)年 8月、文三・ツキ夫妻の長女として生まれる

1944(19)年 父文三死去、家督相続人となる

1949(24)年 信大長野師範学校長野附属小学校入学

1955(30)年 同小学校卒業。信大教育学部附属長野中学校入学

1958(33)年 同中学校卒業。東京の自由学園女子部高等科入学

1963(38)年 同学園卒業。東京YMCA国際ホテル専門学校入学

1964(39)年 同専門学校卒業、藤屋旅館に就職

1968(43)年 結婚。夫婦で藤屋旅館で働く

1969(44)年 長女誕生。家族3人で東京に引っ越す

1971(46)年 長男誕生

1972(47)年 離婚。子ども2人を連れて帰郷。1年間県庁に勤務

1973(48)年 藤屋旅館で働き始める。この後若女将を経て女将となる

1978(53)年 永六輔さんトークショー始まる

1987(62)年 藤屋博覧会開催

1994(平成6)年 「御本陳藤屋」を出版

1997(9)年 藤屋旅館の建物が国の登録有形文化財に

2006(18)年 社名を株式会社藤屋に変更 旅館業からレストラン、ウエディング業に業種転換する