長沼城の跡を探る 発掘調査に期待

台風災害で決壊の堤防すぐ下

二の丸推定地での発掘調査(県埋蔵文化財センター提供)
地元研究会が解明した城の姿実証へ

 台風災害で風景が一変した長沼の穂保地区で、戦国時代から江戸時代初めにあった長沼城の跡を探る発掘調査が行われている。洪水常襲地のため長沼城の遺構や史料が残りづらかったことなどから、長沼城の研究はほとんど行われてこなかった。関係者は発掘の成果に期待している。

 調査地は千曲川の越流で決壊し、復旧した堤防のすぐ下。市の支所や災害対策施設からなる「河川防災ステーション」が城跡の真上に建設されるのに先立ち、昨年10月から行われている。これまでに堀や鉄器加工の跡が確認され、中世から近世の陶磁器や鉄砲玉などが出土した。

 長沼城は17世紀後半に失われ、洪水常襲地のため遺構や史料もほとんど残っていなかった。これに対し、地元住民の「長沼歴史研究会」が2008年から解明に取り組んできた。

 会は地区内から史料を発掘。地道な解読と検討を重ねて城の姿を明らかにし、14年、研究書「長沼城の研究~城跡の検証」にまとめた。今回の発掘調査は会が描き出した縄張り図を基に行われている。堀の跡などがほぼ図の通りに見つかり、精度の高さが確認されつつある。

研究の結果描き出した城の縄張り図について説明する長沼歴史研究会の笹井会長

 研究会が調べた史料のうち、重要な手掛かりになった絵図や検地帳は、守田神社に保管されていた。会は見つかった史料をデジタルデータとして残した。その後、台風で決壊した堤防の直下にあった神社は社殿や鳥居など全てが流失した。会長の笹井妙音(たえね)さんは「私たちが調べていなかったら、史料は永遠に失われてしまっていた。やっておいて本当によかった」と振り返る。

 会はこれまで、研究結果の確証を得るため市に何度も試掘を働き掛けたが、実現しなかった。今回、皮肉にも水害が発掘を実現させた。笹井さんは「水害は残念だが、発掘によって長沼城の真の姿が浮かび上がるのは楽しみ。北信濃が飯山、松代と長沼の城で統治されていたことを、多くの人に知ってほしい」と言う。

 発掘は全体で3・5㌶を掘る大規模な調査で、来年度本格化する。調査に当たる県埋蔵文化財センター主任調査研究員の柳沢亮さん(53)は「地域の文化財は、被災した住民の皆さんの心のよりどころになる。城跡の発掘成果を、長沼の人々の営みの断面として紹介できるようにしたい」と話す。

 長沼城跡からの出土品が、3月19日(土)から県立歴史館(千曲市)で開かれる県埋蔵文化財センター速報展「掘るしん2022」で展示される。

 
長沼城

 川中島の戦いが行われていた1557年、武田信玄が越後の上杉軍に対する前線基地として築いた平城。

 江戸時代に長沼藩が置かれると、藩主・佐久間氏の居城に。1688年、4代藩主佐久間勝親の改易で藩は取りつぶされ、城も取り壊された。

 長沼歴史研究会の研究によると、東を千曲川に面した南北650m、東西500m、外堀を含め約34ヘクタールの規模。現在の千曲川堤防道路の真下に本丸があり、その西側に二の丸や中堀、さらに藩士らの屋敷地や外堀があり、屋敷地の中を北国街道松代道(現県道村山豊野停車場線)が通っていた。

 

 

記事・写真 竹内大介


2022年3月19日号フロント