近代化の中心を担った街
2月15日のまち歩きは「古地図を手にたどる県町」。案内人は、長野市役所まちづくり課職員の星野(将扶文)(まさふみ)さん(34)。参加者には、明治から大正時代の4枚の長野市街地の地図が配られた。
初めに明治時代のれんが造りの建物を3カ所訪問。まずは集合場所でもある大門町の楽茶れんが館。運送会社の建物として1912(明治45)年にできた。外壁は赤れんがに(釉薬)(ゆうやく)をかけて褐色に焼かれたれんが。明治末から大正期のれんが建築の特徴という。
次は信大教育学部敷地内にある書庫。当時ここにあった初代長野県庁舎の一棟として1895(同28)年に建てられた。初代県庁舎は13年後に火事で焼けたが、ここは燃え残った。洋風建築なのに、屋根は和風の瓦ぶきなのが面白い。
3カ所目は国道406号沿いにある長野聖救主教会。98(同31)年に、カナダ人宣教師が中世ヨーロッパのゴシック様式に正確に従って建てたという。
中に入ると、クラシカルで心が落ち着く空間だ。柱はなくれんが自体で支える構
造だが、建築から125年間、地震でも大きく損傷することなく、照明器具以外は建てられた頃のままという。牧師の大和玲子さんは、今後、文化財的価値や美観を保ちながらいかに耐震補強をするかが課題だと話した。
県庁通りを下り、長野地方裁判所の下へ。ここにはれんがで縁取られた縦1・5メートルの開口部の遺構がある。今の地裁から東側のひまわり公園周辺は、明治から昭和中頃まで長野監獄(刑務所)があった。遺構はその頃のもので、かつて監獄の中を南向きに流れていたシシ沢川が(鐘鋳)(かない)川に注ぐ場所だったという。
シシ沢川は川筋が付け替えられ、今は長野商業高の前を西に流れて裾花川に注ぐ。鐘鋳川は道路の下を権堂・東町方面へ流れている。
市立長野図書館のロトウザクラの近くには、石碑が立つ。風化して読めないが、鐘鋳川を境に北が善光寺領、南が松代藩領だったことが刻まれているという。図書館の敷地は、明治初頭には師範学校(現信大教育学部)だった。その後同校付属小学校、次いで県立図書館になり、今は市立図書館になっている。
この日の終着点は長野ホテル犀北館。前身は江戸時代から中野にあった旅館で、明治初めの県庁移転と同じ頃に長野に移り、西洋風旅館になったという。
県町とその周辺は、明治の初めに県庁ができて以降、長野の近代化の中心を担った街だと実感した。
記事・写真 竹内大介
2023年3月4日号掲載
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