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28 連載中の個展開催
共感のお声がけうれしく 多くの支援あればこそ 今回で私の「私の歩み」連載は終了します。この連載のお話を頂いた時は、少々珍しい職業だというだけで、特に輝かしい業績を残してきたわけでもない私がお受けしても良いのだろうかと迷いもありました。しかし、連載がスタートして過去の話をして...
27 ギャラリー展
オーナーらとの信頼関係 作家たちの独特の雰囲気 ギャラリーで定期的に企画展を開いてもらえることは作家としてとてもありがたいことです。大学を卒業して発表活動をスタートしてから、いくつものギャラリーで展示してきました。 1週間単位で代金を支払って借りるかたちからスタートし、半額...
26 「シンビズム4」展
他界した夫の作品を展示 36年の時を経て増す輝き 2021年、上田市立美術館と安曇野市豊科近代美術館の2会場で行われた「シンビズム4」展は、私の中で特別な意味を持った展覧会でした。 シンビズムは県の文化事業で、県内にある別々の美術館に所属する学芸員が共同で企画し、県内ゆかり...
25 コロナ禍での制作
庭の百日草 毎日デッサン 自分の中の新たな扉開く 2016年、私にとって初となる美術館での個展を、おぶせミュージアム・中島千波館で企画していただきました。「郷土の作家シリーズ」という、長野県に由来がある作家を取り上げる企画展の一環で、当時の学芸員の宮下真美さんから依頼をいた...
24 三つの美術館展
画展示の作家に選ばれ 信じてきた表現に自信 文化庁の海外研修後の2008年から09年は、私をさらにステップアップさせてくれた重要な三つの展覧会がありました。 まず、08年に多摩美術大学美術館で開催された「絵画のコスモロジー展」です。文化庁の作品買い上げや、海外研修制度に推薦...
23 欧州が身近に
何度も蘭・仏・独の美術館へ 日本の美意識を再認識 海外研修先にオランダを選んだ一番大きな理由は、研修先の施設などの受け入れ承諾書をもらうためのコネクションがオランダしかなかったことです。フェルメールやゴッホを生み出したオランダには独特の光があるということや、私のモチーフであ...
22 オランダ滞在100日間
到着日に味わった幸福感 長年の支援に大きな感謝 多摩美術大学の教授で美術評論家の中村隆夫さんが私の作品を高く評価し、新聞や雑誌で展覧会のレビューを書いてくださいました。毎回欠かさず展覧会を見てくださり、2003年、東京のギャラリー「アートスペース羅針盤」での個展を終えた後、...
21 クリエーターたち
異分野からの刺激や支援 絵画表現への意識深まる デザイナーの斎藤美和子さんは、亡くなった夫小松良和の予備校講師時代の生徒だったことで知り合いました。不安げで自信のなさそうだった少女が、十数年後にフリーのグラフィックデザイナーとして私の銀座での個展会場に現れた時は、そのオーラ...
20 娘の大学4年間
仕送り工面で四苦八苦 描いては売り自転車操業 中学校で不登校を克服した娘は、高校では勉強に四苦八苦しながらも男子バスケットボール部のマネジャーをやり、部活の仲間との3年間をエンジョイしていました。そして子どもを持つ作家仲間からのアドバイスなども参考にし、受験したいくつかの大...
19 美術を教える
上手・下手でなく 楽しく アートの本質的な力 確信 作家活動をしているうちに、学校での特別授業を依頼されるようになりました。長く続いたのは地元の信里小学校での年に1度の授業です。10年ほど、全学年の児童たちに美術の授業をしました。ほかにも、七二会小、三本柳小、信濃町小中学校...
18 画家の娘
「普通」と違う子育て環境 試練を経て娘も私も成長 長野に戻り、娘が大学入学のために上京するまでの長い間、私は家族が寝静まる夜10時ごろから描き始め、空が白々と明けてくるまで描き続けることも珍しくないような昼夜逆転の生活をしていました。...
17 吉野孝さん
飯綱に小山利枝子絵画館 常設展示の場所を提供 「小山さんの作品を常設展示させてもらえないか」 吉野孝さんからお誘いを受けたのは1995年、東京の「スカイドア・アートプレイス青山」での2回目の個展会場でした。初対面の吉野さんは小柄で年配ながら、普通の人にはないオーラを持ってい...
16 石川利江さん
展覧会運営などで力添え 作家活動で大きな存在 作家活動をしていく上で、文化の中心である東京から離れた地方にいることのストレスを感じないでこられたのは、「ISHIKAWA地域文化企画室」の石川利江さんとの出会いがあったからだと思います。...
15 ステップアップ
青山や銀座で企画展開催 全国へ活動範囲広がる 芸大卒業後に東京で何度も開催した個展は、使用料を支払い、1週間ギャラリーを借りるというかたちでした。現代アートの世界では、ごく限られた作家以外はそれが当たり前でした。とはいえ、私が個展を開催した画廊は、日本の現代アートの歴史をつ...
14 画家としての決意
個展のたび手応えと喜び 作家人生が大きく広がる 長野に帰ってからは、子育てにおいても作家活動においても、両親が私の画家としての活動を全面的に応援してくれました。両親の協力がなければ、3歳の娘の子育てをしながら作家活動を続けることは不可能だったと、心から感謝しています。...
13 長野市で初個展
うねる花びらの曲線美 表現アピールしたい一心 東京で何度も個展を開催しましたが、展示したインスタレーション(設営芸術)作品は会期が終了すると解体して消えてしまうので、作品が収入につながるということは考えもしませんでした。しかし、週刊長野で絵とエッセーを担当し、自分の名前を出...
12 作品制作の再開
旧蚕室を改装 アトリエに 信濃美術館に花の絵出品 私と娘は、父と母、そして姉親子の5人で暮らしていた長野市篠ノ井の村山という集落にある実家に移り住み、7人での生活が始まりました。名字を小松から小山に戻し、心機一転のスタートでした。...
11 長野に戻る
夫の遺作展を無事開催 作品集も納得の出来栄え 私にとって小松の死の衝撃は計り知れませんでしたが、志半ばで逝った小松の無念さを思うと、この世に小松良和という優れた作家がいたのだという証明を何としても残さなければならないと思っていました。一周忌の頃に、当時芸大にあった陳列館と生...
10 夫との死別
素晴らしい才能に恵まれ… 「星影のワルツ」を娘に歌う 1984年に開催した夫婦二人展で私は初めて花の絵を発表しました。長らく否定していた絵画が私の中でよみがえったのです。現在に至る私の花の絵のスタートでした。伊那市内のショッピングセンターのフリースペースを3日間借りて開催し...
09 出産後の制作再開
「夫婦二人展」へ題材探し 道端の百日草にひらめき 1982年、伊那市の農村部にある小松の実家に引っ越し、30畳のアトリエを増築しました。小松は佐久に住んでいた時も、東京でインスタレーションの個展を開いていましたが、生家に戻り本格的に絵画制作に取り組み始めました。...
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